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   0 始まり
 その地震は地震雲や人魚の不安回避行動から予知されて然るべきものだった。後の人々はこのように記すが、当時の人々は予想だにしていなかった。
 パンドラと名付けられた新しい商品、その製造から配送までを一括して行うサイバーストーン社第一工場もまた、地震の到来を知る由もなく、日常、と言っても日常と呼ばれるようになって間もない業務を続けていた。時間の流れが緩やかな春の事だった。
 当時この工場には総勢七八名の学者と作業員が勤めていた。彼らは食品加工業を思わせる純白で簡素な身なりをしていた。
「O、P。共に異常はありません」
 職場の雰囲気も軽やかで、商品の最終検査を行う重要な作業である一角ですら、電子パネルに向かう十人余りの作業員も声が軽快だった。
「OとPは予定通り配送。Q、Rの検査に入ろう」
 監督官も緊張はしていなかった。実作業はすべてコンピューターが済ませるし、この段階では彼らも自分たちの取り扱っている商品が歴史に名を残す危険物である事を知りえなかったし、地震の事も当然に予想していなかったから仕方のない事ではあった。
 室内に硬いキーボードが打ち鳴らされる音が響く中、最初に地震に気が付いたのは屋外の敷地に集う小鳥やウサギと言った危険回避に秀でた小動物たちだった。それらは一目散に工場を離れ、眺めていた職員を不思議がらせた。
「QおよびR。チェックに入ります」
 機械が不必要と思われる騒音を立てて滑り、強化ガラスで作られた隔離空間の中で、ベルトコンベで運ばれてきた対象を上下左右から囲った。人間が三人はが入れそうな容量であったが、それはこの商品に対して当たり前の大きさであったので、特別な感情を抱くものは居ない。
 次に地震に気が付いたのはコーヒーに手をかけた就任間もない作業員だった。彼は最初、単調で自分にかかる負担の少ない仕事に倦怠感を覚えていたので、コップが揺れているのは自分の錯覚だろうと思った。しかしどれだけ目を凝らしてもカップの中で波立つコーヒーは静まらないので、彼の危険意識が爆発的に覚醒した。
「地震だっ!」
 その声の大きさに職員全員が被検体から目を離した。それ自体はこれから起こる事件全体にとって目を離していても居なくても事件は変わらずに起きた些細な事柄だったが、後の裁判で工場長と監督官は個別に責任を追及される事となった。
 地震が起こった。整理の甘い書類や飲料のトレイが飛び交い、工場は場所を問わずに悲鳴と非常ベルの音に包まれた。
 この地域では史上最大規模の地震で、多くの地割れや道路の崩壊が相次ぎ、市街地でも少なからぬ建物が倒壊し、最終的にその被害は数億ドルに及んだ。
 工場はその性質上、取り扱う品の危険を指摘する科学者の指導によって徹底的な耐震性を有していた。事実、この工場が受けた被害はコーヒーミル七台の破損と職員一四名の火傷に留まっている。地震の直後にパンドラを囲う最後の防壁であるフェンスの被害が調べられたが、少々の歪みはあるものの損傷は認められなかった。
「みんな、怪我はないか」
 監督官の呼びかけに、机の下に避難していた全員が無事を応えた。
「パンドラはどうだ」
 その問いかけに緊張が走ったが、緊急停止こそしているものの強化ガラスにも機械にも異常はなく、電子パネルも正常に作業の進行具合を表示していた。
「……Qは九七%完了、エラー終了です。Rも七八%完了、エラーです。一度電源を落としてやり直さなければいけません」
 監督官ばかりでなく、多くの職員が「それはまずい」と思った。
 作業は滞っており、これ以上の遅延は工場の存続を危うくしかねないのだ。
「主要染色体の検査結果は?」
「いずれも正常です。生殖不活性因子、テロメア恒久再生、神経系、問題ありません。肉体の生育も正常です」
「アリ染色体はどうだ」
 調査と報告を請け負った職員はたじろいだ。質問した監督官も同様にたじろいでいた。
 アリ染色体が正常であれば何が起こり、異常であればどうなるのか、彼らには分からなかった。ただマニュアルに「異常であれば即座に焼却処分せよ」と記されているからそうするに過ぎない。
「正常です」
 職員はわけも分からずに安堵した。
「よし。そのまま配送にまわそう」
 監督官が独断で決定して指示を出すと、機械は作業を再開してQとRと名付けられた商品を
送用のベルトコンベアに乗せた。
 こうしてパンドラQとRは世界に送り出された。Qは工場の設置されている王国に買い取られ、Rはショウビジネスの企業に買い取られ、観賞用パンドラとしての価値を全うするはずであった。
 この後Q型とR型にはDNA上に修復しがたい欠点が見つかり、Q型は六番目の永久欠番、R型は´R型として再構成された。
 Rに関する記録はこれで途絶えるが、Qに関しては王室で愛でられてからの記録が残っている。それは飼育員の日記から抜粋されたもので、特に最後のページに関しては「極めて非公式的な性格の」と前置きされた上でこう続いている。
 パンドラが笑った。


   一 R
 Rは公的な記録から消えて久しく、”彼女”がどう言った経緯でそこに居たのかは推測を重ねるほかはない。最初に”彼女”を購入した企業が瞬く間に倒産し、その身柄を非合法な市場に落としてから数年を経て、再び人々の前に現れたのだ。
 既に彼女を”R”として知る者はなく、彼女は「おい」とか「それ」「これ」と呼ばれ、極まれに体に刻まれた識別符から「R」と呼ばれた。それは彼女に後に作られ、そして購入されたパンドラに劣る扱いであった。
「おい」とか「これ」「それ」と呼ばれる彼女の仕事は、図らずも当初の予定と同じショウビジネスの世界だった。しかし型が古い彼女は、その容姿が最新の流行から見れば人気を得るに足るものではなったので、パンドラの特異な性質を以って観客を沸かせるピエロであり、当初予定された花形としての活躍ではなかった。尤も、彼女は何も及び知らぬ話であったが。
「さあて皆々様、ここに居るのは正真正銘本物、血統書付きのサーベルタイガー! 決してバイオテクノロジーの産物によるまがい物ではありません。その証拠に、ほおらこの牙! おっそろしいなあ、もう!」
 サーカス場内は道化がサーベルタイガーの入った檻の周りを走り回ると笑いで満たされた。
 この時のRはまだそれを理解することも無く、何かを特に感じることも無く、ただ連れ出されてきたから首を傾げてみせる人形でしかなかった。
「これはパンドラ! 像が踏んでも死なない! 切っても突いても死なない人造生物でございます。ちょうど人間に良く似ていますから、ちょいと一噛みさせてみましょう」
 観客は一瞬緊張していたが、Rがパンドラであると知ると安心した。中にはRの小柄な体躯に同情する者も居たが、基本的にはサーベルタイガーを見る目とRを見る目は同様のものだった。
「そおれ、やってごらん!」
 道化や飼育員が安全な場所に逃げてから檻が四方にばらけると、サーベルタイガーは阿呆のように立ち尽くすRに向けて飛び掛った。
「ぎゃああああああああああ!!!!!!」
 乳白色の牙がRのわき腹を貫き、Rの体が宙に投げ出される。するとRは今目覚めたように叫び、まばゆい照明の中をたゆたい、誇りっぽい地面に落ちると傷を押さえて猫の玩具のように転げまわった。
 それに刺激を受けたサーベルタイガーは惜しげもなくの哺乳類最強と名の高い爪を繰り出し、Rの背中をかきむしって地味な衣装を引き裂いた。
「あーーーーー!!!!」
 Rの悲鳴は人間のそれと変わらない音質だが、白い衣装を真っ赤に染め上げながら転げまわるその姿と、童心に返った猛獣に、人々は笑わずに居られなかった。
 陽気な音楽が流れ出すと、笑い声はいっそう大きく、遠慮の無いものになり、Rが半ば裸になって横たわり、その姿が布切れと成り果てた衣装と区別しがたくなると、いや増した。
「これ以上はやらなくてもいいでしょう。後掃除が大変です。ほおら、仲良くお帰り!」
 道化が鞭を振るおうとして転倒して更なる笑いを誘うと、猛獣が恭しくRをくわえて退場する。
 ああ、そこまで仕込んであるのか。
 慣れた様子に感心し、観衆は惜しみない拍手をサーカス団に送った。
 Rの背中から覗ける裂けた肉は作り物のようなピンク色で、かすかに見える骨も純白で現実味が薄かった。腹の側からは細長い臓器がぶら下がっているように見えたが、それは破れた皮膚と肉による擬態だった。
 どうにせよ素人目にはこのパンドラが生きのびれるようには見えなかった。
「ガムテープで巻いとけ」
 裏方の親方が指示すると、若い男が慣れた手つきでRを猛獣から引き離し、破れた肉を押し戻してガムテープで傷口を封じた。
「げっ、げっ」
 Rは口から血を吹くことでわずかに残された生命を誇示しているようにも見えた。しかしそれは当人の呼吸を阻害する行為意外の何ものでもなく、パンドラは自らの吐血によって激しくあえいだ。
「これ、血ぃ吐いてますよ」
「何だと。最近ますます使い物にならんな。止血剤を一本だけ打っとけ」
 気の無い返事の後に動物用の止血剤を注射されると、Rは死に瀕した多くの動物がそうするように体を丸めて硬くした。
 こうなれば安全な状態であることをサーカスの団員は経験から知っていたので、裏方たちは主役を張る愛くるしいパンドラ二体の世話に移り、Rは放置された。主役のパンドラはRの様子に一瞬の興味を示したが、大した知能を有するわけでもないので、その興味はすぐに真新しい衣装に移ってしまった。
 このとき、Rとその他のパンドラの間にはなんらの相違もなく、これがRの重ねる日常であり、Rの生命が費えるその日まで続けられるべきであった。
 サーカスの営業は滞りなく続き、この町を拠点として構える彼らには何よりも有難い事であった。
 この景気のよさは町全体を超えて国全体に漂っていた。それは国際的なスポーツの祭典の開催を一年後に控えたゆえのことで、人々は変化と建設に日々を追われ、些細な出来事に向ける目を失っていた。
 後世にはRもこのような状況下であったから積み重なっていく変化を見過ごされたのだの見解を示す学者も居るが、その真偽を確かめるには資料が少なすぎた。
 多くの見解が示したように、ことは突然に、先の大地震のように誰にも予期される事無く訪れた。
「パンドラで客を集めるのはいいアイデアだったな。断腸の思いで新品を三匹も買って正解だったぜ」
 正規の市場で購入したパンドラは今なお高価で、その世話もRと異なり未熟な飼育員には任さされない。飼料にも専用の高カロリーのゼリーが与えられ、Rと新しいパンドラは現代の所得格差の縮図を示すかのような落差を見せた。
 数日が経ち冬の足音が耳に届き始めた日、この日の開演がRにとっての様々の始まりだった。
「さあて皆々様、ここに居ますは正真正銘のサーベルタイガー! 作り物ではなく――」
 道化の言い回しに変わりは無い。
 数年に一度の祭典を前に浮かれる観客の様子に変わりは無い。最前列の席に場違いな神妙さで学者然とした若者が陣取っているが、それはごく自然な比率で存在する変わり者であって、予定調和のごとく組み込まれたこの世界における異端とはなりえていなかった。
「これはパンドラ! 像が踏んでも壊れない!」
 Rの衣装は新しいパンドラの衣装のお下がりで、この点だけが外観を以前と異ならせていた。
「そうれ、やってごらん!」
 鞭を打つピエロ。その動きは昨日をなぞるようだ。サーベルタイガーの動きにも変わりは無い。
 しかしRは昨日と同じ動きを踏まなかった。
「ぎゃああああああああああ!!!!!!!!! いたああいいいぃいいい!!!!」
 牙に腹を貫かれるなり、Rは人間とまったく変わらぬ風合いの悲鳴を上げた。
 それは演技と現実の区別が難しく、場内は一度静まり返り、失笑に近い笑い声が遠慮がちに交わされた。少なくとも笑っていれば惨状が和らぐと錯覚したのだった。裏を知っている団員達にとっては長い興行の中で始めての事件であり、道化もかろうじて動揺を隠した。
「よく出来ているでしょう。これが――」
「いたいい!!!! 誰かぁー!!!」
 助けを求めて逃げ惑うRの姿は話に聞いていたパンドラのそれとは明らかに異なり、人々の間からは雨が止むようにして笑みが消えていった。
「えー、つまりその」
 道化が指で指示を出すと無理やりに陽気な音楽が流されたが、一度生じてしまった、不安と危機感を煽る空気を払拭するには圧力と時間が足りなかった。
「ぎゃっ!」
 背中の肉を爪で削り取られたRは涙を散らして転がり、前列の観客に手を伸ばした。
「たすけて……」
 前列の観客が悲鳴を上げると、対処に尽きたピエロは言葉を失い、混乱と怒声が押し寄せる津波のように場内に広がった。
 収拾がつかないとは正しくこの状況の事だ。
 この仕事に従事して長い年月を重ねる、普段は年寄りとバカにされているピエロが急ごしらえの化粧で姿を現した。
「最近のパンドラはよく出来ています。ほら、もう傷口がふさがり始めている」
 彼はサーベルタイガーを下がらせると、Rの手をつかんで持ち上げて見せた。
「ほらね? もうこの通り」
 Rの体が無数のライトに照らされ、紅く染まった白い肌が露になった。実際の傷口はRの心臓の鼓動にあわせるようにうごめいており、観衆に見せられるような代物ではなく、熟練のピエロは巧みに傷の目立たない場所だけを見せ、観客を納得させたのだった。
「だから大丈夫! 引き続くサーカスをお楽しみください!」
 道化とRがスキップで舞台の裏に消えていく。
 ああ、やはり演目の一環だったのか。
 徐々に笑いが起こり、拍手が広がった。
 舞台の裏では広げたダンボールの上にRを放り投げ、団員達が取り囲んで怒声を飛ばし合った。

誰かに何かの責任を転化しようとするものであり、Rそのものに向けられた怒りでもあり、正体不明の現象への恐怖めいた憤りであり、七色の怒声と言えた。
「助けて……」
 Rは腹を押さえて懇願したが、団員を不気味がらせるだけで何の役にも立たず、薬の一つも得る事は出来なかった。
 彼女の目は他のパンドラとは異なり、よく見れば昨日までと風合いも違っており、それは周囲の人間達と同じ種類の光を帯びていた。
「やっぱり中古品だからガタがきたんだな」
 団長の発言でもあり、団員達はすがるように納得した。
「どうします? サイバーストーン社に修理を頼みますか」
「そんなモンを受けられる買い方はしちゃ居ない。処分料を取られるだけならまだしも、賠償沙汰になりかねん」
 Rは聞き届けられない願いを口ずさむのをやめ、自分の置かれている状況について考えた。
 これがRの最初の思考になったと言える。

 痛い。熱い。重い。痒い。痛い。
 お腹が熱いよ手が痛いよ背中が熱いよ頭が痛いよ足が痛いよ口が痛いよお腹が痛いよ。
 どこ。どこ。ここはどこ。
 誰。誰。あれは誰。この人達は誰。
 私は誰。

 全身から噴出す汗がそうであるように、思惟も泉のように沸いて溢れ続けてRを悩ませた。
「とりあえず薬を打って放っておけ。処分はその後だ」
 団長の指示で何本かの薬が打たれると、Rは声を絞り出して拒んだ。
「薬は……いやぁ」
 錯覚だ。
 団員達はそう思い、聞かなかった事にした。
 猛獣に使うはずの鎮静剤は著しい効果で、Rは白目を剥いて倒れた。
 傷口を覗いてみると、既に目立った出血はなく内臓と肉がうごめいている。
「化け物だな」
 団長が吐き捨てて立ち去ると、団員達もこれから出番を迎える新しいパンドラの身だしなみを整えに戻った。
 本来のパンドラは犬や猫程度の知能しか持たない、そしてどこか生物味に欠ける瞳をする人造の生物でしかない。新しいパンドラはいつもと何ら変わりなく高カロリーのゼリーを食べさせてもらい、のどを鳴らし、その平常さが余計にRの異常さを引き立たせて不気味に思わせた。
 薬のせいもあって深い眠りに就いたRは初めての夢を見た。内容は取るに足らないもので脳細胞も保存の必要性を見読めなかったが、それでも夢を見た感覚だけは、Rの生涯に渡って残り続けた。
 目を覚ますと全身を蝕んでいた熱と痛みは過去のものとなっていた。それはRにとって考えるまでもないごく当たり前の事だった。
「誰?」
 誰も居ないサーカス場。静まり返って空気の流れが聞こえてきそうな世界に、Rの声が深く響いた。
「誰なの」
 自分が体を起こすと示し合わせたように真似をする者の姿に、Rは少なからぬ不安を抱いた。
 鏡。
 少なくとも知的な経験を重ねている人間であればその招待を峻別出来たが、Eにはそれだけの経験も知識もなかったので弱い明りの中で鏡像を睨み、体を硬くした。
 そこから彼女が次の段階、鏡の認識に移るまでの時間はそれほど要さなかった。
「人じゃないのね」
 Rは鏡に手を触れ、胸に刻まれた”Rー00****”をなぞってから自身の胸元に目を向け同じものを見つけた。
「これは私? 私のなのね」
 鏡は同じ動きを映し、Rは鏡を理解した。
 しかしRは自己を表す単語も概念も知らなかったし、そこに至るまでの考察の行程も未知の領域だったので、いたずらに鏡をなぶり回してから立ち上がるに留まった。
 手を突いて脚に力を込め、腰に重心を移して鏡の縁を支えに立ち上がる。これは小脳の記憶する段取りで、直立してからも歩行に困窮する事は無かった。意識して見るには初めてとなる視界の高さに驚きを感じるだけだった。
 足を踏み出すと、コンクリートの固い感触と冷気が同時に足を刺激した。
「冷たい」
 この冷気に害はないと本能的に察すると、僅かな躊躇いはあるものの歩き出す事が出来た。
 暗い。冷える。誰も居ない。
「寂しい」
 初めての感情はその状況の典型さから容易に認識できた。
 少しでも明るい方向に向かって歩くと、再び鏡と出会った。大きな鏡で、Rの全身を映し出すことが出来た。
 柔らかい髪は豊かでうなじを冷気から守ってくれているが、肩まで覆っていないので防寒の用には供さない。胸に刻まれた記号も暖かさを与えてくれるものではない。痛みと怪我の深さが記憶に新しい腹部は、全てが夢でしかなかったかのように、整った形のへそも滑らかな肌も新品の肉体の雰囲気だ。脚にかすかに残る赤い血痕だけが惨劇を物語った。
「これが私」
 改めて見ると、目が大きいような気がするし、唇が淡いような木もするし、全体的に線が細いように思えるが、比較対照を記憶から捻出する事が出来なかった。
 しかしこの姿、”彼ら”とは明らかに違う。”彼ら”は、彼らの体はもっと色鮮やかだったし、その表皮を脱着出来たようだし、この寒さを意にも介さない暖かさを有しているようだった。
 彼らと自分の違いは何だろう。
 Rは鏡の端に檻の中から目を光らせるサーベルタイガーの姿を見つけると、まずは手近な存在と比較するべく近づいた。
「あなたは寒くないの?」
 サーベルタイガーは気だるそうに横になったまま、目だけをRから離さずに細くうなった。
「ごめんなさい。何を言っているか分からないの。でも、暖かそうね」
 Rは猛獣の腹を撫で、その暖かさに頬を緩ませた。
「あったかい。いいなぁ、それ。私も欲しい」
 Rがその暖かさを堪能している間、猛獣は目を細めて大人しくしていた。
 そのぬくもりを十分に手に蓄えると、Rはお礼に頭を撫でてやってから立ち上がった。
 見渡すとまた鏡を見つけた。ここは鏡が多いのか、鏡というのはどこにでも置いてあるものなのかと思って近づいて見ると、それは像を映しているものの、鏡ではなかった。
「あなたは私と同じ?」
 鏡のように自分を見つめ返してくる存在。しかし自分の容姿とは重ならない。
 それが水槽で中に居るのが人魚である事を知らないRには鏡ではない事がおぼろげに分かる程度だった。
 人魚とは知らない存在のあどけない眼差しに、自己と近似的なものが感じられた。
「あなたは喋れないのね。ここは寒いの」
 彼女からの応答はなく、興味をなくしたのか奥のほうへ帰ってしまった。
 Rは引き返し、再び明りを求めて足を進めた。
 すぐに人の姿を見つけ、足が止まった。
「クスリを打っておけ」
 そう言っていた人間だ。
 看板である事など露知らず、Rは物陰に身を潜めて動く筈のない団長を睨み付けた。期せずして睨む行為は観察につながり、自分と”彼ら”の違いをよく知る結果ともなった。
 頭の毛の色が違う。あれは黒く、私は黄色い。あれの鼻の下には黒いものがついているが、私には付いていない。あれの目は丸くて太い枠で囲われているが、私にそんなものはない。そしてやはり、あれの体はふくよかでゆったりとしていて、暖かそうだ。
 いくら待っても人間が動き出す気配はなく、Rは護身のためにとムダだと分かっていながらも足に絡まった布を手に取り、歩み寄った。
「動けないの?」
 返事もない。動きもしない。それが生き物ではないと分かるのに時間は要さなかった。
 布に包まれた腕が温かくなってきたので見ると、それはただの布地ではなく洋服だった。
「これは服?」
 突発的に記憶の波が電流となって脳髄を駆け巡り、Rは軽いめまいを覚えた。
 舞台に連れ出される前に、自分もこれを着せられたのだ。残念ながら本来の用には供さなくなったが、確かに着ていたのだ。
 ではどうやって着たのだろう。
 ぼやけた頭で錯誤を重ね、慣れない手つきで試行を繰り返し、鏡を使えばよいと気付いてからは作業もはかどった。そしてRは衣服に身を包み寒さと対峙する事に成功した。
 服は真っ白で余分な布地が多く、ひらひらとしていて暗闇の中でもよく目立った。
「しかしそんな物であれを殺せるのかよ」
 その言葉の意味は分からなかったが、突然の訪問者の語調から危険なものを感じてRは身を隠した。
「大丈夫さ。基本的には人間と大差ないってあの学者も言ってただろ。あいつはサイバーストーンから回収に来たに違いない。諸分量を取られる前に、こっちで殺して燃やしておけばいいのさ」
「やれなかったらどうするんだ」
「いちいち悲観するな。象用の麻酔だぜ? 心臓止まらないまでも、確実に動けなくなるだろうよ。そこをズドン、だ」
 何一つ理解できる単語がない。どこからどこまでが一つの単語なのかも分からない箇所も少なくない。
 シルエットの数は二つ、横幅のある人間で、理解するより先に逃亡の必要が感じられた。
「しかしあの学者は追い払ってよかったのか。サイバーストーンの関係者だろう」
「知るか。団長が決めた事なんだからよ、あれもこれも」
 声とシルエットからして、二人。近付いてきて、気付かずに通り過ぎて。一方が筒状の物を手にしており、通り際に猛獣の檻を覗いたものの非友好的な態度を示された。
 今のうちだ。
 Rは身をかがめて手をつきながら這い出ると、二人がやってきた明かりの方を目指した。服のすそに釘が引っかかり、服と小道具入れが引っ張り合い、緊張状態に入り、金物を積んだ山が揺れる。Rは前に進み続け、違和感を感じて振り向き布地が限界の寸前に達していることを知り、服を引っ張った。
「おい、居ないぞ」
「起き上がったのか、くそ。とんだ不良品じゃないか」
 山が崩れ、鈴、鍋、ボウル、輪、ステッキ、金属がいっせいに地面と口付けをしてけたたましい情熱の歌を歌い上げた。
 あまりにも音か大きくてRはひるんだ。
「居たぞ、あそこだ!」
 その声に込められた危険な雰囲気が本能に訴えかけると、Rの脚は勝手に立ち上がって光と生存を求めて走り出した。
「ちくしょう逃げやがる!」
 散らばった金属が彼らの足を取り、Rに幸運を与えた。
 その明かりの元にたどり着けば生命を得られるとでも言うのかのよう、集光性の昆虫のように、夜光虫に招かれる人の心のように、Rは一心不乱に走った。服のすそに脚を取られて何度も転びそうになりながら、走った。
「かまうな撃て!」
 何かが爆発した。
 右耳が吹き飛ばされて鼓膜が悲鳴を上げ、Rは失った耳を押さえて明かりの下に転がり出た。
「外すな! 頭をぶち抜けば死ぬんだ!」
 殺意は空気を伝って肌に届いた。
 殺されるわけには行かない
「殺せ!」
 再び野爆発音の直後にコンクリートの床が弾けた。攻撃者の怒りは失敗に向けられているのかRそのものに向けられているのか、とにかくその声は言葉を伴わずに獣の咆哮を思わせた。
 逃亡者Rは痛みを堪えて立ち上がり、走った。
「街に逃げる気だ!」
 最初についた距離は決定的な差で、彼らはRに追いつく事叶わず、従業員用の通路に逃がしてしまった。
 怒声と爆発音を背に浴びながら走るRは、赤対通路を抜けて、暗闇の中に無限の明星が輝きを競い合う人口の小宇宙に躍り出た。
 世界が変わった。攻撃者の音も気配も消え、Rに無関心な人間が往来するばかりで、光彩と音楽が秩序無く駆け巡っている。
 一つ一つ全てが理解の範疇を超え、脳のフィラメントを焼き切ってしまいそうだった。しかしそれを押し殺して走らなければ生命の保証は無かった。人を超えて道を越えて交差点を超えて誰かに怒鳴られて、狭い通りを抜けて大きい通りを駆けて、空は真っ暗なのに眼前は煌々と輝くとおりに出るまで走った。
 息を切らして立ち止まり、辺りを見回すと物と人と光と音が溢れ返っていて、津波のようで、頭が割れてしまいそうになった。興味が次々に沸いてくるがどれ一つとして処理する時間がなく、さながら消化出来ない分量を次々と胃に流し込まれているようで、息をするのもままならない。
 Rは集中する事で危機的状況を脱しようと試みて、いくつ物光彩が煌くテレビが並ぶショーケースに手をついて、見つめた。テレビの存在を知らないからこそ圧倒的な情報量に目がくらみ、逆効果になった。
 きっと自分はたくさんの物に押し潰されてしまうんだ。
 訳の分からない妄想が脳にへばりつく。
「R」
 不意に、テレビに自分の胸に刻まれた記号が映し出された。
「アール」
 Rはアール。テレビはそう言っている。
 それだけがよりどころであるかのように、Rはしっかりと抱きしめて倒れた。
「どうしてパンドラが一人で出歩いているんだ」
 倒れるRを抱き止めた男は、口ではそう言いながらもこの事態を予測していたような風だった。
 二人が出会ったそのとき、テレビはパンドラに関するよくないニュースを報道していた。だがRは当然にその内容を知らなかった。


   二 名前
 暖かい。やわらかい。いいにおい。
 Rは目を覚まし、これが夢なのかそうではないのか判断にこまねいた。
 体を包む布はふんだんに空気を含み軽く、圧力をかけるとどこまでも沈んでしまう。
 服をまとっていない顔や手足も何もしていないのに暖かく、空気自体が暖かいのだと分かる。
 鼻をくすぐる香りは胸の鼓動を鎮め、意識が深く沈んでいきそうだ。
「栄養ドリンクに蜂蜜にゼラチン! あんた、可愛い女の子を連れ込んだと思ったら何をする気なんだい! 事と次第によっちゃ息子と言えども容赦しないよ!」
 ドアを隔てて甲高い声が部屋の中に聞こえてくる。
「だからあれは女の子だけど女の子じゃないんだよママ。分かってくれってば。ああ、もう、分かってくれなくてもいいから、とにかくあっちに行って!」
 ドアを開けて入ってきたのは気を失う直前に見たような気がする若い男。片手におそらく会話の中に出ていたゼラチンだの蜂蜜だのが入っている茶色い袋をぶら下げている。
「親に向かってその態度は何だい! 誰大学まで出してやったと思ってるんだがい!」
「後で説明するから! それに大学からは奨学金が出てただろ!」
 彼はドアを閉めると、Rに背を向けて机に向かい、荷物を広げた。
 サーカスで見た男たちよりも幾分か細身で、その体からは恐怖を感じられない。
「それは何をしているの?」
 突然不快な臭いが漂い始めると、Rは鼻をつまんだ。
「パンドラ用の栄養ゼリーを作っているんだ。臭いと見た目は悪いけど、栄養分に変わりはないはずだ。味はまあ、僕が食べるわけじゃないから関係ないね」
「じゃあ誰が食べるの?」
「そりゃ決まってるじゃないか。君だよ」
 男は椅子に座ったまま振り返ると、Rを見て硬直した。
 その緊張は空気を伝わってRにも伝染し、Rの動きも自制させた。
「……よし、動くんじゃない」
 男はRから目を離さないまま立ち上がり、机の上から小瓶を手に取った。
「これはシェーカー。分かるかい?」
 Rは首を横に振ってから慌てて固まった振りを続けた。
「分からない」
「そうか。これは君達パンドラの神経系を破壊して、一瞬で殺すガス毒だ」
 殺す。
 言葉自体は恐ろしかったが、男の声や目からその言葉に該当する意思は感じられず、Rも特別な反応を示さなかった。
「君が僕を襲おうとしたら、僕はこれを床にぶちまける。すると気化したシェーカーが君の肺から吸収されて、すぐに君は死ぬことに――」
 男が言い切らぬうちにドアが開き、太い女が甘い香りのするチップをたくさん乗せたトレイを両手で抱えて入ってきた。
「この臭いは何だい。また変な実験をして。さあさあお嬢ちゃんはこっちのビスケットを食べて頂戴ね。ジョンは私みたいに太りたくないからって食べてくれないのよ。ほらジョン、ぼーっとしてないで机を片付けなさい!」
 息子は母を止めようとするが母はためらうことなく突き進み、ベッドの脇にビスケットを置く。
「たくさん食べなさい。ここもうちの娘が使っていた部屋だけど、今は誰も使ってないの。だからゆっくりしてね」
「彼女はそんなものは食べないし、それっぽっちのカロリーで満足出来るものか。人間じゃないんだぞ」
 ジョンの予想に反し、Rはビスケットをつまんで口に運ぶと満足気に微笑んだ。
「笑うと素敵ね。ジョン、早く片付けなさい! ママが持っていくわよ!!」
 ジョンは瓶と簡易ゼリーの材料を奪われてうろたえたが、それ以上にのろのろとビスケットを口に運ぶRの姿が気になり、部屋から出て行く母親を止める事も出来なかった。
 その姿からは、ジョンの知るパンドラの凶暴性を感じる事は出来ない。
「まるで人間じゃないか」
 ジョンは降参してベッドの端に腰掛けた。
「美味いかい? 甘ったるいと思うんだけどね」
 Rはビスケットを口に含んだまま言葉を捜した。
 初めての食事のような気がする。比較出来る記憶がない。しかし口の中に広がる甘さが全身に活力を与えてくれるのは確実に分かることだ。
「おいしい」
 Rは意識することなく、不意につぶやいた。
 その返答にジョンは笑い、自身もビスケットをつまんだ。
「やっぱり甘すぎる……全部食べてカロリーの足しにするといい。その耳、再生したばかりなんだろう? サーカスでも相当深手を負ってたし。今が一番カロリーを欲しているときだろうな」
 この人は自分よりも自分のことを知っているいるのだろうか。
 Rは面食らい、元に戻った右耳に触れたままジョンを凝視した。
 背は高いのに横幅が細く、まるで母親に幅を取られてしまったかのようだ。
「牛乳も全部飲むんだ。出血していた分の鉄分も欲しいし、何よりたんぱく質が欲しい」
 ジョンはRを様々な角度から眺め、時には手を当て、医者がそうするように指示を飛ばした。
「後で髪の毛を何本かもらうぞ。一ヶ月ぐらいはさかのぼって情報を得られるはずだ。出来れば採血もして、そうだな、骨髄液は無理か……でも骨の密度ぐらいは確認したい。やっぱりアレックスたちと合流して研究所に行ってからか……」
 皿が空になるころにはRの腹も膨れ、Rは食欲を満たすためではなく言葉を発するために口を開いた。
「どうして私を殺さないの?」
 ジョンはRが口を利ける事を忘れていたのか、手で遊んでいたビスケットを口に運んでのどに詰まらせた。
「大丈夫?」
「大丈夫なもんか、いきなり変なことを聞かないでくれ。……いや、変でもないか」
 ジョンはRと顔を向き合わせたが、目を合わせることが恥ずかしくなり、立ち上がって机のほうを向いた。
「最初から殺したくなかったし、サーカスでも芯で欲しくなかった。だから色々交渉してみたんだけど、あれはうまくいかなかったな……大体僕は交渉なんて苦手なんだ。とにかく僕としては、生きたままの、ナマのサンプルが欲しかったんだ。でないと君の自律行動の秘密を暴くことが出来ないからね。それにしてもまさか、そこまで人間然と振舞えるなんて。言語野の発達が著しいと言う報告は聞いていたけど、君も例に漏れないようだ」
 振り向くジョンの目は熱を帯びていて、それは興奮とも不安とも読み取れた。

「私は殺されなくてすむのね」
「君が僕を襲わないならね」
「襲わないわ」
「それなら安心だ」
 ジョンが信頼を見せると、Rは逆に不安になった。

 私は本当に彼を襲わないのだろうか。私よりも私をよく知っている彼がその危険を考えていたのに。
 彼が私を私よりも知っている。私は私の何を知っているのだろう。
 何も知らない。
 Rの瞳に刺す暗い影に気がついたのか、ジョンは殊更陽気な声を上げた。

「しかし皮肉なものだな。いち早くパンドラの研究から外された僕が真っ先に君みたいなパンドラを見つけるなんて。良くも悪くも、僕の予想は的中していたわけだし」
「私はパンドラと言うの?」
 Rは尋ね、ジョンの考え込む様子にうろたえた。
「君はパンドラなんだけど、名前は違うんだよ……何て言えばいいのかな」
「名前?」
 ジョンは説明を困難と判断し、Rのすぐ傍に腰掛けて図をかたどるよぅに手振りした。
「僕が人間のジョンであるように、君はパンドラという種、ある全体の中のひとつとして君自身なんだ。パンドラというのは君と君の同属を指す全体の名前で、君には君の名前があるんだよ」
「私に名前が?」
「多分あるんだ。識別番号とは別に、元の買主か誰かがつけていれば」
 名前。
 Rは記憶をたどり、それを見つけた。
「私はアール」
 Rはアールと名乗り、アールになった。
「男性名か……その名前は誰が?」
 答えに迷ってアールがうつむくと、ジョンは申し訳なかったと誤った。
「君がそこまで分かっているはずもないね。それより君の識別番号を知りたいんだけど、体を見せてもらえるかな?」
 アールはその意味するところが分からずにジョンと目をあわせ、首をかしげた。それを受けてジョンは目を合わせまいと目をそらした。
「いや、やましい気持ちはないんだよ。君が何型なのかを知りたいだけなんだよ」
「必要なのね」
 ジョンは何度もうなづいた。
「私はどうすればいいの?」
「少し服を持ち上げてくれ。こんな風に」
 アールはジョンがするように服をたくし上げ、呼吸に合わせて上下する胸をあらわにした。ジョンは一瞬だけ目を泳がせたものの、アールの胸に刻まれた”R”の文字とそれに続く数字を復唱してから、興奮を抑えられない様子で机に駆け寄った。
「R型! R型だからアールなのか。それにしてもR! Qによく似ている。カタログには……やっぱり欠番になってる。R’型と同じような高効率型なのか」
 ジョンの集中力は声をかけがたいものを感じさせ、アールは服をたくし上げたまま不安を押し殺して見守った。
「Qとの共通因子を見つけられれば……研究所に行くしかないか」
「さあ、お代わりを持ってきたわよ」
 前触れもなくドアが開き、ジョンの母親が悲鳴を上げてビスケットの乗ったトレイを落とした。
「あんた何してるの!!」
「え!? あ、ああ! ママは入ってくるなって言ったじゃないか! アールも、もういいから! 戻して! 服を着てくれ!」
 突然に始まった口論にアールはうろたえた。
 ジョンの口ぶりから服をたくし上げていることに原因があることは予想できたのでたくし上げるのをやめたが、それでも口論は終わらない。
 親子は互いに一歩も譲らず、一方は部屋に押し入ろうとして一方が部屋から追い出そうとする。
「やましい事じゃないんだから、もう入ってこないでくれ!」
「パパが帰ってきたら言いつけますからね! 分かってるのねジョン! いくつになってもあなたはママたちの子供なのよ!」
 ドアが閉められて鍵がかかってからも、母親の声はしばらく止まらなかった。
 数分待って母親の気配がなくなると。ジョンは疲れた様子で机に向かい、椅子を回転させてアールのほうを向きなおして弱々しく笑った。
「いつもああなんだ」
「ごめんなさい、私のせいで」
「本当にいつものことなんだよ。どうせすぐ忘れてくれるから、気にしなくていいよ」
 そのまま黙ってアールを見つめてから、ジョンの瞳は力を取り戻した。
「その服は自分で着たのかい?」
 アールは頷き、ジョンの驚きように逆に驚いた。
「すごいな。君が意識を持ってどれぐらいになるのか分からないけど、半年以内にそこまで学習していたなら、とてつもない学習能力だ。やっぱりパンドラの再生力は大脳皮質の形成にも大きく作用しているに……」
 ジョンは言葉に人間味のない色彩が乗り出したことに気がつき、ぎこちない笑いを作った。
「ばかばかしい仮定だ」
 アールとしては最後まで聞いてみたかったが、それを聞き出す勇気までは持てなかった。
「……私はこれからどうすればいいの?」
 どうしても何かを尋ねたくなり、アールは自分でも本意の分からない質問を口にした。

 私はどうやってここまで来たんだろう。
 ジョンの顔を見ていると疑問が尽きずに沸き続けるようだった。
「それは……君が自分で決めるべきだと言いたい」
 予想だにしない突き放しにアールがうつむくと、ジョンは慌てて言葉を続けた。
「君は意識を持った。自分の意思、自我があるんだ。これはとても凄い事で、何せ僕の同僚たちはあり得ないと思っていたぐらいに奇跡的なことなんだ。だから僕としては、君の意思を尊重したい。だけど、そうは言っても、アール。はっきり言って君はまだ無知だし、判断力も乏しいと思う。だから僕は君の意思を尊重しつつ、僕と行動を共にして欲しいと思うんだ」
 アールは誰の目にも分かるように喜びに眼を輝かせ、ジョンを希望の光だと言わんばかりに見つめた。
 アールにはジョンの発言のすべてを理解できなかったが、一緒に居られることが分かっただけで十分だった。
「あなたについていく。私、どこにでもついていく」
 他意があるはずもないが、ジョンはありもしない意図を想像し、赤くなった顔を隠すように机に向かった。
「観賞用パンドラ……こう言うことなのか」
「どうしたの?」
「いや、なんでもない。考えることがあったんだ。それにしても、サーカスでの君の扱いは酷いものだったね。団長は滅多にないミスだって言ってたけど、怪しいものだ」
 アールは考えるのはジョンの癖なんだろうと思い、自分にも似たところがある事に気がついた。これが意識と言うものなのかと意識のなかった頃の自分と比較して答えを探ろうと試みたが、記憶にあるのは意識のある間のことだけで、比較しようがなかった。
 記憶をたどる中、サーカスでサーベルタイガーに牙を突き立てられて目が覚めたように意識なり記憶なりが始まった瞬間のことが思い出された。
「あの子は悪くないの。私が今こうなのは、あの子がああしてくれたからなのかも知れないの」
「あの子? ああしてくれた? それはさっきのサーカスの事かい?」
 アールが頷くと、ジョンは寝覚めに耳元でベルを鳴らされたような衝撃を受けた。
「まさか」
 ジョンの声は喜びと、それと相反する感情、恐怖とで裏返っていた。
「君は二四時間足らずでそこまで成長したって言うのかい? 言語の本能化が実現できていても不思議じゃない。でも、高度なコミュニケーションを達成出来るまでに? 自分で服まで着れるように? 時間を認識するまでに? アール、君は、君は奇跡だ。そして君がそうであるなら、他のパンドラにもその可能性はある。つまり、僕の予想は悪い方向に的中していて、多くの部分では予想を超えていて……これは、くそ、どうしたらいいんだ!」
 ジョンの表情は瞬く間に喜びから恐怖へ、恐怖から怒りへ、怒りから喜びへ、喜びから悲しみへとめまぐるしく変化し、アールにも正常な状態ではないことが分かり、アールは枕を抱きしめて不安を紛らわせた。
 ジョンはアールに構うことなく机の上の書類にかじりつき、情報を求めてページをめくったり考えを書き留めるために机に直接メモを書いたりした。
「大脳新皮質の形成が早いんだ。覚醒の前から緩やかに発達していたのか、発達があったから覚醒したのか、覚醒してから発達したのか……どれにしたって尋常じゃないぞ。彼女の成長速度なら……アール、君は文字が読めるかい?」
「文字?」
 ジョンは振り返ってアールの反応を確かめると、再び机に絡み取られた魚のように卓上に没頭した。
「Q型がアールに等しい成長を見せるなら、すぐに人間に気付かれずに計画を進めるに至っても不思議じゃない……あの代謝速度なら産卵回数も一日に十数個に及ぶ可能性も十分だ。駆除を考えるなら、シェーカーの耐性種が生まれる確率が三〇%で」
 ベルが鳴った。
 アールもジョンも飛び跳ねて驚き、ジョンはそれで冷静さを取り戻し、それまで書類に埋もれて存在を潜めていた電話の受話器を取り上げた。
「はい。ああ、アレックス、ちょうど良かったよ。こっちは大収穫なんだ」
 ジョンがおかしくなってしまった。
 電話を知らないアールはジョンの言動にこの世の終わりを感じ、お腹の奥が縮み上がる不快感に体を振るわせた。
「僕は大丈夫だよ、それよりそっちは?」
 耳を澄ますとアールにも受話器から漏れる男の声が聞こえ、内容は分からなかったが、ジョンが一人でおかしくなってしまったわけではないのだと推測でき、不安を和らげた。
「詳しいことはそっちで話すよ、出来ればゾナは抜きで。ええ?……しょうがない、分かったよ」
 ジョンは電話を終えるとアールの視線に気がつき、手を広げて笑って見せた。
「電話だよ。ちょっと用事が出来た」
「電話?」
「ああ、そうか。まあ、僕はこの部屋に居ない他の人と話をしてたんだ。でも、急に先走りすぎたな。これからは気をつけるよ。今はまだ分からなくてもいい」
「教えてくれれば、きっと覚えられるわ」
 ジョンはアールの希望に答えようか迷い、時計に目を走らせて時間を確かめた(アールがその仕草を真似た)。
 時間はない(アールには時計もただの円盤に見えた)。
「アール、君も一緒に行こう。移動しながらでも電話と時計の説明ぐらいは出来るさ」
 外出はアールに不安を覚えさせた。
「どこに行くの?」
 ジョンは言葉を選ぶのに苦労したが、アールに不安を与えまいと、表情と手振りは努めて明るいものをつくろった。
「まずは僕の友達が待っているところに行く。そしてその後に、アール、君が生まれた所に行くつもりだよ」
 生まれた所。
 アールは不安が吹き飛び、よく分からないが不快ではない感情で胸が膨らむのを感じた。
「……行くわ」
 ジョンはアールの瞳の虹彩が緩やかに広がるのをじっくりと観察した。


   三 類似
「あなたのほっぺた、美味しそうね」
 彼女の指が頬に触れる。
「食べてしまおうかしら」
 彼女の指先が額に移り、鼻筋をなぞる。
「いっそ私に仕えてみる?」
 彼女が無邪気に笑った。
「でもやっぱり食べるわ」
 彼女――パンドラQ型の冷たい唇が頬に触れた。

「わああああ!!!!」
 ゾナは飛び起きて包帯の巻かれていない自由な左腕を振り回し、白いベッドシーツにいくつ物ひだを作りながら膝を抱え、食べられてしまった頬を探った。
 女性らしいふっくらした頬はそこにあり、夢であったことを示していた。
 常夜灯に照らされた室内にはゾナ以外に誰も居らず、荒い吐息とエアコンが空気をかき回す音に混じって冷蔵庫のうなり声が聞こえるばかりだった。
 壁にかけられた小さな絵画を眺めていると、その牧歌的な景色が故郷を思い出させると同時に、望まずして故郷に起きた惨劇が思い出された。
 事が起きたのは一ヶ月前で、広大な合衆国の中央に居を構える小さな王国が一夜にして崩壊した。その日はよく晴れており、惨劇さえ起こらなければいい一日として特に記憶にも残らなかっただろう。
 数年前に王室が観賞用に購入したパンドラという、人間と同じ姿をした人造生物が中庭から姿を消して半年が過ぎ、国王らの関心も薄れて捜索が惰性になった頃だった。パンドラは帰ってきた。中庭から通じる古い歴史を持つ、現在では使われていない下水路から、何百もの数に膨れ上がって。
 そのパンドラは最初購入したパンドラとはだいぶ様子が異なっていた。本来のパンドラが人間と同じ姿をし、おとなしく、自発的な行動を見せないのに対し、そのパンドラは人間のシルエットを持った猟犬とでも言うような様相で、積極的に人間を襲った。それでもパンドラだと言えるのは、他に何であると説明する事も出来ず、救助に駆けつけた合衆国の特殊部隊からそのような説明を受けたためでもあった。
 パンドラは瞬く間に議事堂と王宮が併設される一帯を満たし、ゾナ率いる王国軍の王室警備部隊が放つ自動小銃の弾丸もものともせず、人間を食い、ゾナを追い詰めた。
 歴史的な下水道は市街にも通じており、パンドラは市街にもあふれ出た。平和記念公園を視察していたカロン総理大臣が行方不明の国王の承認を待たず、国民全員に国外避難を命令したのもそのときだった。これは国内外から賢明な判断であったと評価され、国王も支持するであろうと言われたが、この時点で国王は既にパンドラに食い殺されていた事をゾナは知っている。国王はゾナの目の前で、新しいパンドラではなく、Q型と名付けられている観賞用パンドラに頭を割られ、脳髄をすすられていたのだ。
「あなたのほっぺた、美味しそうね」
 Q型は柔らかい声で言い、ゾナの頬に指を添えた。
 パンドラが喋るなど、ゾナの常識では考えられなかったし、そんな例は世界中のどこにも認められていなかった。しかしゾナは目の前の光景に受けた衝撃が大きすぎ、そんなことに疑問を抱く余地もなく、国王の骸が何の礼節も施されずに食べ散らかされるのを見守る事しか出来なかった。
 このときになって合衆国の特殊部隊がヘリで駆けつけ、窓を割ってゾナの目の前に現れた。Q型はまるで舞踏会にでも出かけるわと言った雰囲気で身を翻し、姿をくらました。
 こうしてゾナは救われ、王国は一日にして崩壊した。
 王国は地理的に合衆国の中にあったが、その領土は有史以前に形作られ始めた深く広い堀に囲まれており、合衆国が王国に通じる東西南北四つの橋を占領した今、パンドラが拡大する恐れはなかった。
 それでもゾナの心は常夜灯の届かない暗がりからパンドラが飛び出してくるのではないかと言う不安に満たされ、体を震えさせた。
 ゾナの心中を察したかのようにドアが開き、明かりがつけられた。
「悪い夢を見たようね」
「ライザ。そう……少し、よくない夢だった」
 その姿にゾナは心を落ち着かせた。
 現れたのはパンドラではなく人間、それも自分を救出した特殊部隊の一員だ。
「せっかくだから、腕の傷も見ておこうかしら」
 ライザはベッドに腰掛けてゾナの腕を取ると、優しく包帯を解き始めた。
 ライザはウェーブのかかった黒い髪を肩まで伸ばしていて、深い黒色の瞳を持っていた。その柔和な顔立ちと介護からは想像できない程力強い性質を秘めており、色の濃い肌と豊かな唇がそれを匂わせていた。その服装は中性的で、後姿だけを見れば性別は判別しがたい。
「もうよくなっているみたいね。後は気の持ちようしだいだから、リラックスしてね」
「気か……そうだな。私も気を強く持たなくてはいけないな」
 ゾナはうつむいて血色の良くなった唇を噛み、細い金色の髪が頬にかかった。
 ゾナの容姿は背中まで伸びた長い金髪に海のような碧眼と、逆卵型の小さな顔とで、まるで流行の着せ替え人形のように見えた。王国軍人として鍛えてきた、細いながらも男性に引けを取らない強さを持った四肢があったが、白くゆったりとしたパジャマがそれを確認することを阻み、ライザが手に取る左腕から見て取れるばかりだった。
「ジョンが知り合いの女の子を連れてくるそうよ」
「部外者を連れてくるのか」
「それは好ましくないけど、どうやらその子も関係者らしいのよ。まあ、多分あなたのお世話をさせるんじゃないかしら」
「私のほかにもかくまわれている被害者が?」
「そういう情報は届いていないわ。ジョンの同僚か、工場の職員かも知れないわね」
 ゾナはパンドラを作った会社の一員と聞くと言い思いがしなかったが、ジョンのように気を許せる相手もいることを思い出し、気を静めた。
「私は少し買い物に出るわ。ジョンが来るまで少し、一人で何とかしてね」
「もう大丈夫だ。足も動くし、両手が使えるなら不自由はない」
 ゾナは微笑んで力瘤を作る真似をし、ライザを笑わせた。
 ここは安全なのだ。

 アールはゾナがパンドラを恐れる理由をジョンから聞かされていたので、自分がパンドラであることを隠しつつ、申し訳ない気持ちになった。
「そうか、博士の親戚だったのか。それにしてもアールとは、不思議な名前だな。私に国では男性名になる」
 ゾナは自由になった左腕の感触を楽しむかのように笑顔でリビングを歩き回り、テーブルに熱いコーヒーを並べた。
「テレビが教えてくれたの。Rはアールだって」
「テレビ?」
 ゾナが聞き返すと、ジョンがむせ返って注意をひきつけた。
「大丈夫か、博士」
 ジョンは大丈夫だと言おうとしたが言葉にならず、結局ゾナに背中をさすられてアールに顔を覗き込まれるまで落ち着かなかった。
「あんまり美味しかったものだから、つい一気に飲んじゃってね。もう大丈夫。テレビでも見ようか」
 テレビを見る。
 その言葉にアールは目を輝かせた。
「テレビを見るのね」
「アールはテレビがすきなのか」
 ゾナはアールの子供っぽいしぐさに目を細めた。
「さっきも街頭テレビにかじりついてたんだ。しかしテレビも安くなったね。世界博覧会効果恐るべしだよ」
「自分の国で開催するというのに、まるで他人事だな」
「人魚も博覧会も僕みたいな学者には縁がないのさ」
 ジョンはテレビを点けて子供に人気のアニメが放送されているのを見て顔をしかめると、チャンネルを回して放送局を一巡し、結局アニメに合わせた。
「どこも博覧会ばっかりだ。ニュースぐらいやったらどうなんだろうね」
「学者が博覧会から疎遠になるのはそう言う事だな」
 ゾナに笑われるとジョンは肩をすくめた。
 アニメの内容は単純なもので、祝日を除いて毎日放送されている児童向けのものだった。大人には見る気も起こらないものだったが、アールが熱心に見るので二人も黙って眺めやった。
 ネズミが転がるチーズを追いかけ、そのネズミを猫が追いかけ、その猫を犬が追いかけ、さらにその犬を飼い主らしき横に太い婦人が追いかける。チーズが壁の穴の中に消え、ネズミがそれに続き、猫は穴に入れないために踏みとどまり、犬も衝突を避けてブレーキをかけたが、婦人だけが立ち止まれずに壁に激突し、二匹は壁と婦人に挟まれて平たくなってしまった。
「ははっ。……いや、間抜けだね、うん」
 ジョンは飾り気なく笑ってから、こんなものを見て笑うとは何事だと自分を戒め、無関心を装って関をした。
「よくある話だな」
 ゾナはアールが熱心に見るものだから何か裏があるのかと探っていたが、結局何も見出せず、あっけに取られていた。
「ネズミとチーズは通れるけど、大きい猫と犬と人間は通れない。猫も犬も分かったのに、どうして人間だけ分からなかったのかしら」
 アールはジョンに尋ねたが、ジョンは答えに困っている様子で、ゾナが回答を引き受けた。
「人間は皆、自分の大きさが分からないものだ。だからサイズの合わない服を無理に着ようとするし、私のように現場にそぐわない判断を下して部下を亡くしてしまう事もある……動物には当たり前に分かる危険の大小が、私には分からなかったんだ」
 ゾナの瞳から涙がこぼれることはなかったが、アールはその目から悲しみを感じ取り、悲しみを暖めて拭い去ろうとするようにゾナの手を両手で包んだ。
「元気を出して」
「……お前の手は暖かいな」
 ジョンはアニメを眺める振りをしながら二人の様子を観察し、アールを連れて来た判断がゾナに良い効果をもたらし、怪我の功名となった事に満足した。
「本当に暖かい。熱があるんじゃないか?」
 ゾナはアールの顔を覗き込んだが、青い瞳は澄み渡っていて、熱っぽさはどこにも感じられなかった。
 そして熱以前に、何かに似ているような気がした。
 いつまで見ていても飽きない、見つめ続けて痛くなる色合いの瞳。笑むと柔らかな形を作る唇。和やかな曲線を描く眉だけは対照的だが、全体を通して漂う雰囲気は――
「似ている」
「何に?」
 本当に似ているのか?
 アールが訊くと、ゾナは自問し返し、アールの手のぬくもりを確かめた。
 あれ――Q型はこんなに暖かな存在ではなかった。
「いや、私の思い違いだ。知り合いに似ているような気がしただけで、似てなかった」
「子供は体温が高いからね。アールも子供みたいなものだから、体温が高いんだよ」
 ジョンは不自然にアールの体温を理由付けたが、ゾナの関心はアールにあるものの体温からは離れていた。
 誰も口を開かず、テレビの音がやけに大きく感じられた。
 もともと一人暮らしの女性を想定して設計された部屋は、パステルカラーの壁紙と日光を取り入れるための大きな窓が特徴で、寝室とリビングにリビングの奥に併設された台所とバスがあるだけで、簡素な間取りになっていた。その上仮住まいとして利用しているゾナがかざりっけを好まないため、リビングにはテレビと本がまばらな本棚ぐらいしかなく、ゾナの服装もあいまってどことなく病室を思わせた。
 テレビを見るアールに、アールを見守るゾナ。
 ジョンはゾナがアールに集中していることで知られて欲しくないことを知られてしまう気がして、気をそらすべく模索した。
「アレックスとライザはそろそろかな」
 ジョンの狙い通りに、ゾナの注意は壁にかけられた時計に向けられた。
「長くはならないと言っていた。そろそろだろう」
「軍人は忙しいんだね。僕は学者でよかった」
 ゾナはいたずらっぽく笑った。
「私も軍人だが、今は暇でしょうがない」
「いや、君は怪我人だったし、そういう意味じゃなくてさ」
「分かっている、気にするな」
「その人たちが来たら出発するの?」
 アールが尋ねると、ジョンは助け舟を得たと何度も頷いた。
「そのつもりだよ。一日も早いほうがいい」
「しかし博士、本当にこの子を連れて行くのか? 私も人のことは言えないが、銃を持つことも出来そうにない子を連れて行くには危険すぎると思うが」
 ゾナの言い分は尤もだった。
 目指しているのは王国の経済特区に設けられたパンドラ工場で、必然的にパンドラがどこに潜んでいるか分からない王国領内を通過することになり、ジョン自身も学者として出来る限りの自衛手段としてシェーカーを携帯していた。
「危険だろうけど、アールに居てもらわないと調べられないことがあるんだ」
「アールは技師なのか? こんなに若いのに」
「僕だってこの仕事に就いたばかりの頃は若かったさ。技師って言うのは、まあ、そんなものかな」
 ジョンはこれ以上の追求を避けるべく視線を沈ませた。
「私は迷子にならないわ。ちゃんとついていくから」
 アールが言うと、ゾナはアールを抱きしめて高めだと思われる体温を全身に感じた。
「私が守ってやる。何も心配するな」
 ゾナはアールを守ってやりたくて仕方がなかった。母性本能がそうさせるのか本人にも分からなかったが、害をもたらす感情ではないので気にしないことにした。
 アールからはいい匂いがする。
 ゾナは深く息を吸い込んだが、突然の喧騒に呼吸を乱された。
「ジョン! つれてくるのは女一人じゃなかったのか!」
 ドアを乱暴に開けて迎えを待たずに部屋に飛び込んできた男とライザは、片手に銃を片手に買い物袋をと言ういでたちで語気を荒げた。二人の銃口はドアのほうに向けられている。
「アレックス、落ち着いて」
 ライザがアレックスの買い物袋を受け取り、ソファに並べる。
「ど、どうしたんだいいきなり。僕はアールしか連れてきてないぞ」
「あなたがアールね。私はライザ。よろしく」
 ライザには挨拶をする余裕がありアールも答えたが、アレックスは短く刈り上げた硬い髪がまるで緊張で逆立っているかのようで、銃を構えたまま室内を右往左往して家具や荷物を移動させていた。
「共和党派の連中がお前さんをつけてたんだよ。もうビルはすっかり四面楚歌だ」
 アレックスはあわただしく動くものの、その声は確かな経験と知識から落ち着いており、よく調律された管弦楽器を聞いているようだった。
「持ってけ」
 ジョンは投げて渡された小銃に慄きながら、アールと共に道草を食いすぎたことを思い出した。
「まずは私たちが時間を稼ぐから、その間に遠くに逃げて。合流場所は例のホテルよ。ああ、その銃はゾナが持っていたほうがよさそうね……」
 ライザの物腰は穏やかだったが、釣り糸と防犯ブザーを組み合わせて何かしらの装置を作って入り口に設置する様はいかにも軍隊らしい手際だった。
「私も戦う」
 ゾナは立ち上がったが、アレックスに拒絶された。
「あんたはまだ足手まといになる。包帯が取れただけで全快だなんて、一昔前のゲームじゃあるまいし」
「ゾナは二人を守ってあげて。共和党と戦うのは民主党の仕事なのよ」
 ライザがアレックスの言葉を補い、ソナの怒りを静めた。
「分かった、私たちは先に出よう」
 アールには何事かまるで分からなかったが、テレビが入り口の前に移され、続きを見ることが叶わないことは分かった。初対面の二人もろくに挨拶を済ませないうちに顔をマスクで覆い始め、挨拶をしても後日改めて初対面の挨拶が必要になりそうな有様だった。
「アール、これを背負って。僕はゾナの分も持つ」
「すまない」
 ジョンはアールに旅程で必要になりそうな小物の詰まったリョックサックを背負わせると、自分でもひとつを背負い、もうひとつを肩にかけた。
「ダストシュートの右手に隠し扉がある。そこから落ちれば外に出られる」
 アレックスの声はマスクでくぐもっていたが、的確に三人の耳に届いた。
「僕が先に降りる。アールは次に、ゾナは最後に来てくれ」
 アールがアレックスたちの仕掛けに見とれていたために、ジョンはアールの肩を叩いて注意を引いてからもう一度繰り返し、アールに確認を取った。
「ホテルで落ち合おう」
 ゾナがそう言ったのを合図にジョンが部屋の隅にあるダストシュートに身をねじ込ませ、暗がりの中に姿を消した。
「気をつけていくんだ」
 ゾナはアールの手と足を取ってくぐり方を教え、ダストシュートの中の隠し扉を指で示した。アールはすぐに了解し、ジョンがそうしたように身をくぐらせ始めた。
「早くしろ、奴らが来るぞ!……ん?」
 アレックスはマスクのサーモグラフィが正常ならざる体温を示しているのを見つけ、目を凝らした。ダストシュートに潜り込む者の体温が高すぎる。しかし通常表示に切り替えたときには既にゾナの右手が見えるばかりで、計器の誤作動を確認する必要はなくなっていた。
「どうしたの?」
「なんでもない」
 アレックスは頭を切り替え、目の前の仕掛けに集中した。
 二人はソファーを横倒しにして盾とし、埃っぽい底面に顔を押し付けるようにして事が起きるのを待った。
 時計の長針が三回同じところを巡って間もなく、入り口のドアが音もなく僅かに開かれた。ドアが外の光が差し込む寸前まで開いたところでノブにくくり付けられていたテグスが床に張り付いた防犯ブザーのタグを引っ張り、サイレンを鳴らした。
「来るぞ」
 サイレンが鳴るとドアが開き、リビングに並べられた花火がいっせいに火を噴いて飛び出し、室内は色のついた煙に包まれ、ドアの外に立っていたらしい兵士のくぐもった声が聞こえた。
「武器を持ってるぞ、下がれ!」
 ライザは失笑した。その間も絶え間なく打ち続けられる花火は出先で買ってきたもので、人に向けて打たないでください、手で持たないでください、といくつも注意書きが添えられたお祭り用のものだった。
 アレックスが爆竹を投げつけ、撃ち返された実弾に口笛を吹いた。
 二人はなるべく自分たちでは発砲する事無く済ませようとしていた。事が軍法会議沙汰になったとしても自分たちに発砲の事実がなければ裁判は有利に進むし、作戦の目的は時間を稼ぐことと、騒音を立てて”敵”が住民の目を恐れてこの場に長居出来なくなるように仕向けることにあった。
 花火の火が床や天井を焦がし、銃弾が壁を削った。マスクなしでは呼吸がままならないほどの煙が辺りを満たし、銃弾を受けて割れた窓ガラスが散乱した。
「数が少ないようだ。ラッキーだったな」
「すぐに応援が来るわ」
「来てもらわなきゃ俺たちが逃げられんさ」
 二人の声に焦りの色はなく、サバイバルゲームでも楽しんでいるようなそぶりだった。
 ややあって発砲をはじめとする”敵”の反応が止まり、二人も立ち上がった。
「おしまいだな。ライザ、先に行け。俺が最後に花火を打ち上げてく」
「私が女だから?」
 二人はマスク越しに見つめあい、アレックスが葉を見せて笑った。
「バカ言え。退路を確保してもらうためだよ」
「頼りにされてるって幸せね」
 ライザがガラスのなくなった窓からベランダに飛び出し、手すりにロープをかけて飛び降りた。
「連中に殺傷能力はない! 突っ込むぞ!」
 ”敵”の声を確認するまでもなく、アレックスは導火線に火をつけてライザに続いた。
 室内が蛍光色の煙と火花と轟音に包まれ、ビル中に響き渡った。
「連中は何を使ったんだ!」
 数十秒が立つと静寂が戻り、煙と硝煙の臭いだけが足跡を残し、七人の侵入者達は煙の中を捜索に奔走した。
 楽しいパーティーを! お徳用花火。
 誰かがすすけたパッケージを拾い上げると、残った花火が部屋の隅で弾け、ハズレと書かれた旗を立てた。
「追いますか」
 部下の問いかけに、指揮官は旗を踏み潰した。
「ここまで目立っては引くしかない。これ以上ペテンに引っかかるのもごめんだ」
 彼らは速やかに退散し、遅れて野次馬とビルの管理人がやってきたときにはゴミが散乱しているだけだった。

 アレックスとライザが降り立ったのはビルの脇の路地裏で、ジョン達が進んだ道とは逆の方向に位置していた。
「あいつらは隣の棟の屋上に出てエレベーターを使ってさらに下に降りれたはずだな」
「エレベーターの電源は下の階からでないと入れられないわ。もしも電源が入っていなかったらまずい事になるわね」
「管理人を信じよう俺達も忙しい」
 二人は路地裏から出ると道路に止めてあった車に乗り込み、約束のホテルを目指した。


   四 パンドラ
 しくじった。
 ダストシュートから逃げ出した三人は別の棟の屋上に立ち、汗を吹き飛ばすような風を受けて判断の誤りを知った。
「これがエレベーター。さっきも乗ったよね」
 アールはその名を確かめるように言ったが、先ほどアールがビルを上るために使ったエレベーターのように美しく清掃されたものではなく、屋上同様、細かなゴミや空き缶の吹き溜まりとなって、風雨の影響も受けて緑のペンキがはげて赤茶けた錆を涙のように流していた。
 低いフェンスを補おうとして挫折したかのようにまばらに散らばる粗大ゴミがそうであるように、エレベーターも動力を失っていた。
「これはどうなっているんだ」
 ゾナが下降を示すボタンを押してもエレベーターが息を吹き返す素振りはなかった。
「隣の棟の三階から直接こっちに上ってくるのに使ってたんだ。見てのとおり動いてないけど」
 二つの棟の幅は、三人のいずれもが飛び越えることが出来ない程度だった。エレベーターの上から下までの高さは三階分で、骨折をいとわないのでなければ飛び降りることも適わない。
「どうすれば動くんだ」
「防犯上、下で電源を入れなきゃ動かないみたいだ」
 ジョンが低い柵越しに棟と棟の谷間を指差した先には、住人の記憶からも忘れられたようなダンボール箱と埃が山積する通路があり、エレベーターの脇の壁に電源盤と思しい赤い箱が備え付けられていた。
「高すぎる。人間が飛び降りられる高さじゃない」
 ゾナは一瞬ダンボールをクッションに飛び降りることを考えたが、無謀に過ぎると自分に気付かせた。
「戻るしかない。ここは失敗だよ」
 ジョンは言ったが、ジョンにもそんな事は出来ないと分かっていた。
「いまさら遅い。それに正面切って出て行けたとして、私達の足では待ち構えている連中に捕まる恐れがある。何とか動かせないのか、博士」
「僕の専門外だよ」
 ゾナはエレベーターの周りを丹念に調べ、手と髪を汚れにまみれさせた。
 アールは二人のやり取りを眺めた後、先ほどジョンがそうしたように柵から身を乗り出して階下の谷間を見下ろした。ゾナが言うとおり、人間に飛び降りられる高さではない。それは大怪我をするからに他ならない。なら人間ではない自分なら?
「私が降りてエレベーターを動かす」
 アールの閃きにジョンは光明を見出したが、すぐにゾナと一緒にアールを引き止めた。
「バカな事を言うな! そんな華奢な体で、死んでしまうぞ!」
「アール、気持ちは嬉しいけどそのアイデアは受け入れられないよ」
「私なら出来る」
 ジョンはアールに見つめられて冷や汗をかいた。
 ゾナは否定の言葉を続けるが、アールならば可能であろうと言うのがジョンの見積もりだった。
「私は大丈夫」
 アールの言葉は力強く、ジョンの汗を吹き飛ばした。
「やむを得ない、銃を使おう。引き返す」
「いや。アールに任せよう」
 ゾナは耳を疑い、ジョンを睨みつけた。
「気でも狂ったのか、博士」
 ジョンはゾナを無視してアールの両肩をつかみ、視線を絡ませた。
「アール、下まで行ったらエレベーターの近くに赤い箱が取り付けられているのが見える。まあ、ここからでも見えるけど、とにかく見つかる。それを開いて、中のボタンを押すんだ。緑色のボタン、緑。この色だ」
 ジョンは胸ポケットから緑色のボールペンを取り出し、アールによく見せた。
「この色ね」
 二人が本気なのを改めて悟り、ゾナは頭を振った。
「お前達、本気なのか!? 正気じゃないぞ!」
 ゾナの声は裏返っていた。
「大丈夫」
 アールは微笑んだ。
「私、象に踏まれても死なないの」
「何を言ってるんだ」
 ジョンの感慨深げな態度がよりゾナを混乱させた。
「アール、パイプの出っ張りでも何でもいいから、どこかに腕をぶつけるんだ。落ちた瞬間の衝撃が和らいで、多少はラクになると思う」
 アールは黙って頷くと、これ以上ゾナを刺激しまいとしてか、リュックサックを脱ぎ捨ててすぐに柵を飛び越えた。
「バカはやめろ!」
 ゾナは駆け寄って痛む腕を伸ばしたが、アールは見向きもせずに両手を広げ、シルクのベッドに身を投げ込むかのようにして落ちていった。
「アールなら大丈夫だよ。あの子は」
 ジョンはゾナの眼光に言葉を詰まらせ、黙ってアールを見守った。
 アールは落下しながらジョンに言われたことを確認していたが、意識して行動するまでもなく右腕がビルの排気口にぶつかり、短く鈍い音が辺りに響き、体をひねって呻いた。
 軽く骨折すると共に、皮膚が破れて赤い肉が覗かれた。その痛みをこらえる暇もなく前進に衝撃が走り、背中から始まって胸に、腹に、脚に、腕に、首に、目に、頭に痛みが広がった。
 ダンボールの山を突き破って通路のコンクリートに体を打ちつけた事がアールに分かったのは、真っ白な視界が晴れて正常に戻ってからの事だった。
「アール、大丈夫か!」
「博士、お前はあの子を殺す気だったんだな!!」
 二人の声は冷静さを欠いており、アールは早く答えなければとあせり、全身の痛みを追い払うように息を吐いて上体を起こし、柵越しに覗き込む二人に向けて弱弱しく左手を振った。すると二人が安堵するのが分かった。
 アールは息が吸えない事に驚いたが、喉から漏れる乾いた音に呼吸をしていることを知り、改めて呼吸の実感がないことに驚いた。折れた右腕が熱く、そこだけ体重が増したような存在感を持った。左腕でビルの壁を伝うパイプをつかんで立ち上がると、エレベーターのすぐ傍にジョンの言った箱を見つけることが出来た。右足に力が入らず、歩くのに手間がかかった。折れているのかも知れなかったが、痛いばかりでよく分からなかった。
 アールが箱にしがみつくように手をかけるとふたが開き、アールは姿勢を崩して転び、立ち上がるのに再び時間を要した。
「緑だ! アール、緑のボタンだ!」
 緑。アールは箱にしがみついて配電盤を覗き込み、まず左手の甲が裂けて赤い血を滴らせているのを見つけたが、無視して配電盤に集中した。
 黒いボタンが四つ下のほうに並び、上のほうには赤いボタンが二つと、緑のボタンが一つあった。予想外のボタンの多さに、一瞬目がおかしくなったのかと思われたが、ボタンは確かにそこに存在した。
 震える手でジョンのボールペンと同じ色のボタンを押すと、一瞬だけ配電盤が震えて低い音を立て、赤と緑のボタンを光らせた。エレベーターも息を吹き返して欠伸をするような音を立てて上昇し、アールはそれを見送って倒れた。
「やったぞアール! 君は最高だ!」
「お前は最低だ」
 ジョンはうかれたがゾナの一言に冷静さを取り戻し、荷物をまとめて二人でエレベーターに飛び乗った。エレベーターの稼動を祝福するように花火がなる音がしたが、それどころではなかった。
 上ってくるときとは違い、エレベーターが下るのがやけに遅く感じられ、ゾナはジョンの首を絞めてやりたくなった。
 下まで着くと二人は我先にとエレベーターから飛び降り、アールの元に駆け寄って手を取った。
「酷い怪我だ……急いで病院に連れて行かなくては」
「これぐらいなら大丈夫。アール、お腹は痛くないね? 脚も打撲だけだ。よし。何時間かで治るだろう」
 ジョンに腹部を押されながら言われると、アールは微笑んで答えた。
「何を寝ぼけたことを言ってるんだ。骨折している! 手も切って……お前にはこの子の痛みが分からないのか!」
「分かってるよ、分かってる。とにかく急ごう。時間がない」
 ジョンはガラクタの中から手ごろな棒を拾い上げるとアールの添え木にし、背中で担いで荷物をゾナに預けた。
 三人が移った棟の一階はドラッグストアになっており、三人は一度ビルを降りて路地裏に出ると、アールをゾナに任せてジョンだけが店内に戻り、買い物を始めてゾナをあきれさせた。
「包帯は分かる。水も消毒液も薬も分かる。だが何だ、このスポーツドリンクに蜂蜜に、サプリメントに、まるでスポーツジムじゃないか。お前はこの子をなんだと思ってるんだ」
「君よりは彼女のことを分かってるさ。いや、ある意味じゃ君のほうがよく知ってるはずだけど」
 ジョンがアールの傷口を消毒して呻かせ、包帯を巻きながら言うと、ゾナはいい知れない不安を感じてアールを抱きしめ、その体がやけに熱い気がした。
 三人は地下駐車場から手ごろな車を失礼し、まずジョンがスポーツドリンクに蜂蜜とサプリメントを流し込んでよく混ぜて、得体の知れないジュースを作ってから逃走の道についた。アールに飲ませるものだというが、ゾナは飲ませたいと思わなかった。
 車の運転はジョンが担当した。ゾナも運転することが出来たが、彼女の免許は王国のものであって、合衆国では通用しなかったため、ゾナの道徳上運転するわけにはいかなかった。
「ジュースを飲ませてやってよ。アールにはそれが必要なんだ」
 十字路の信号待ちに差し掛かったとき、ジョンが指示を出し、ゾナは信じられないと言った面持ちでアールにジュースを店、アールが飲むしぐさを見せると、また信じられないと呟いて飲ませた。
「包帯も巻きなおそう。博士はお前の体を気遣っていないようだ」
 ゾナは早く餅が固まり始めゲル状の血液がついたアールの左手の包帯を外し、硬直した。
 血にまみれて肉を覗かせていた傷口は、既に肉が盛り上がって元の形を作り、新しい皮膚が形成され、血痕がなければ何日か前の傷跡だと誤診してしまうだろう。
「ゾナ、私……」
 アールの声からも、潤んだ瞳からも、当初の重症は感じられなかった。そしてとにかく体が熱く感じられた。
「お前は……」
 ゾナは自分でも驚くほど抑揚のない声を出した。
「アールはパンドラなんだ」
 ジョンは信号が青になって運転に集中し始めたせいか、間を作ることもなくあっさりと答えた。
「彼女はあるサーカスで見世物にされていた。僕が発見したのがつい昨日で、とにかく僕が見つけたときはそうだった。そして僕の目の前で人工サーベルタイガーに刺されたそのとき、意識に目覚めたんだ。いや、意識を持ったというべきなのかな……まあ、どっちでもいいや」
 聞いているのかいないのか、ゾナはアールの傷跡から体のあちこちへ視線を走らせ、ジョンも聞かせているというよりは独り言を呟いていた。
 これがパンドラなのか、とゾナは見るほどに疑念を抱くと共に、パンドラから受けた恐怖と、Q型を見たときに受けた印象を鮮明に思い出した。特にアールの青い瞳はQ型のそれと酷似していた。
 猟犬のような牙で食いちぎられる部下。撃っても死なず、死んだと思ってもすぐに再生する恐怖。国王をむさぼった唇。無性に忠誠を誓いたくなるような種を超越した魅力。
 全てがQ型と同じように見え、別のものに見えた。
「お前はパンドラなのか」
 ゾナが尋ねたからか、苦しいからか、アールは低い声を出した。
「彼女はパンドラなんだ。だからすぐに再生する」
「違う」
 ジョンはハンドルを誤りそうになり、路肩に車の姿ないことを確認し、入り口の狭いアパートの前に停車した。
「ゾナ、君がアールのことを人間だと思って接してくれるのは嬉しいけど、これは事実なんだ。彼女の傷跡を見れば君にも分かるだろう」
「違うんだ!」
 ゾナはジョンと向き合って否定した。その瞳にはおぞましい記憶から来る恐怖がなかった。
「この子の目は温かい。あいつとは真逆だ。まるで私達と同じじゃないか。この子は人間だ」
 強い確信を持って放たれた言葉は、感情の面ではジョンに対しても説得力を持った。

「……それでもアールはパンドラなんだ」
 学者として事実をゆがめることは出来ず、ジョンは自分を恨んだ。
「ならばこの子はパンドラだが私達と同じなんだ」
 ゾナは穏やかな眼差しをアールに送り、求められると体を支えて起こし、ジュースを飲ませてやった。
「どうしてそう思うんだい」
「理屈じゃないんだ。とにかく、そう思う」
 ジョンは理屈を期待していたが、不思議とそれでも納得出来た。
「ジョン、少し寝るわ」
 アールは二人が落ち着くのを待ったかのようなタイミングで言うと、ジョンの了解を受けて眠りに落ち、車内は静かになって車道の喧騒から歩道の賑やかさまで耳に届くようになり、今日が祝日なのだと思い出させた。
 ジョンが車を発進させた。
「パンドラとは何なんだ」
 唐突な質問だったが、信号を待っていたこともあり、ジョンの運転は乱されずにすんだ。
「サイバーストーン社が作った人造生物さ。人間と同じ姿かたちをして、薬物に対して人間と同じ反応を示す。つまり当初は、薬物実験用に作られた実験機材だったんだ。王室に進呈された観賞用は特別だったけど、すぐに似たような愛玩用パンドラが作られるようになった」
 信号が青になった。
「パンドラが生命倫理に抵触することはあり得ない。なぜなら、パンドラは作られたものだから。それも単に人間が作ったという形を取ってるんじゃない。パンドラの染色体、DNAの螺旋の末端から中枢に至るまで、全部人間が作ったんだ。その人造DNAをヒドラ、湖なんかに住む単純な生物の細胞に移殖して、分裂させる。するとDNAに従って細胞分化が進んで、パンドラが完成する。尤も、性染色体だけは人造出来なくてアリの染色体を配色したけどね」
「まるで錬金術だな」

「そう、サイバーストーン社はそれを目指していたからね。賢者の石を超える科学の石、サイバーストーンをこの手で、ってね。でも失敗だった。現にアールやQ型は持つはずのない自我を持ったし、生殖能力は排除されているはずなのにQ型は繁殖した。多分、犬を使ってね。ひょっとするとそこが科学者と賢者の違いだったのかもしれないね」
 ジョンが笑うと、ゾナも笑った。ジョンの笑いは会社に向けられたもので、ゾナの笑いは自分に向けられたものだった。
「しかし博士。パンドラが人間に似せて作ってあるとしたらこれはおかしい。少なくとも私達がこんな怪我を負ったら、死んでしまいかねないし、こんなに早くは治らない」
 何故こんな疑問に気がつかなかったのか。
 しかしジョンはそれについても熟知している様子だった。
「それは偶然なんだ」
 予期しない答えにゾナはミラー越しにジョンの顔をうかがった。運転に集中している。
「さっきも言ったように、彼女達の細胞はヒドラの細胞を拝借している。ヒドラって言うのは原始的な生き物でね、多くの場合分裂で増えて、再生力がすさまじいんだ。パンドラも強い再生力を獲得した。そして人間の数倍に及ぶ代謝速度。だから彼女達の体は熱いわけだけど、まるで早回しを見ているみたいに再生するんだ。それと高速な代謝速度と引き換えに、常にカロリーを求めて飢えを感じているんだ。……アールやQ型のような、高効率型と言われるタイプを除いてね」
  デパートが見つかると、ジョンは係員の誘導に従って駐車場に車を向かわせた。
「運転は久しぶりなのに、少し喋りすぎたかな。ブレイクタイムにしよう」
 車は地下駐車場の隅、自動販売機とゴミ箱が並ぶ所に止められた。
 二人はアールを残して車を降りると、体を伸ばして筋肉をほぐしてから自動販売機でジュースを買い、車にもたれかかった。
「博士はおいくつになられた?」
 そういうゾナはいくつに? 尋ねようとして、ジョンは苦笑して考えを振り払った。学者は不失礼な生き物ではない。
「僕は三〇。パンドラが初めて作られたのは一七のときだ」
「ずいぶんとお若く見えるぞ。私と同じぐらいだとは思えない」
「両親の元から離れないから子供のままなんだって言われるよ」
「私は研究の副作用かと思った」
 二人は大きく笑い、逃亡の緊張をほぐした。
 ジョンはこのまま逃亡中であることを忘れていたかったが、ゾナは早くも思考を切り替えていた。
「車は捨てて電車で動いたほうがいいと思うんだが、どうだろう」
 どうだろうとは、アールの回復の具合を尋ねる意味だった。
 ジョンは顎に手を当てて車内のアールを覗き込んだ。目立つ外傷は既に消え、顔色は穏やかだ。骨折の回復にはまだ時間がかかるように思われたが、腕であれば歩くことに問題はない。
「本人が目を覚ましてから聞いてみよう。歩けそうだったら電車で行く」
「まさか病院に連れて行くわけにはいかないしな」
 ゾナはアールの見た目と再生力のギャップに慣れようと努めたが、容易ではなかった。
「僕としても行けるなら行きたいね。出来れば機材を貸してもらって色々調べたいこともあるし、何よりアールの為になる」
「しかし病院はそんなレンタルサービスはやっていないだろうな」
「仕方ないさ。だからこそ僕達は工場に行くんだ」
 その工場はジョンのかつての職場であり、ゾナが目の敵にしていた経済特区の一角であり、全ての始まりの場所だった。
 間もなくしてアールが目を覚ました。
「おはようアール。水と食事を取ろう」
「気分はどうだ?」
 アールは社外の二人によく光を反射する目を向けて、笑顔で答えた。
「少し痛むけど、もう大丈夫」


   五 好奇心
 ジョンはゾナの冷ややかな視線を背中に受けつつ、目を泳がせながらアールの体を触診した。
 体温は高いがパンドラの常であるし、外相のない肌は血痕を水で洗い流すと場違いなほどに絵画的だった。
「痛むかい?」
 アールが首を横に振ると、ジョンはアールから離れた。
「肋骨にひびが入ってたりはしないみたいだ。あとは脚しだいだね」
 ジョンが背を向けると、アールはジョンの真似をして体のあちこちに触れたが、自分では何が大丈夫なのかまったく分からなかった。
「脚の具合はどうなんだ?」
 ゾナはアールの耳に届かないように尋ねた。
「たぶんひびが入ってる。カルシウム剤を飲んで二時間はしないと歩けるようにはならないと思う」
 仮定の話ばかりでジョンは気分が悪くなりそうだったが、らっかんするよましだとりは気を持ち直した。
「二時間か……車の中で食事を取って待つか」
 ゾナはアールにサプリメントを飲ませ、自分でも最後のビスケットをかじった。
「そうしよう。僕が上で色々買ってくるよ。特に地図と水を買って来ないと」
「女子はここで待たせてもらおう。走れ、男の子」
「そんな年じゃないよ」
 ジョンは笑顔で駐車場を駆けていった。
 もしここでアールが凶暴なパンドラに変わってしまったらどうなるのだろう。
 ゾナは空想を遊ばせたが、アールの目を見てすぐに空想を吹き飛ばした。
「もう起きれるのか?」
「うん。ゾナの腕は大丈夫?」
「私は不養生がたたって治りが遅かっただけだ。……それに本当は、とっくによくなっているのかも知れないな。腕ではなくて、心が痛むんだ。あの日のことを思い出すたびに痛みがぶり返す」
 ゾナはそこまで言ってアールに顔を覗き込まれている事に気付くと、深いブルーの瞳に心をゆだねた。
「不思議だ。お前と居ると、つらい事もみんな忘れてしまうようだ」
 それもパンドラの能力さ。
 ゾナは博士の説明を想像し、一笑にふした。
 アールの体は子供の頃に抱きしめた猫のように温かく、幼い頃の良い思い出ばかりが蘇り、そのまま抱きしめて眠りこけてしまいたくなった。
「少し疲れたな」
 ゾナがアールを抱きしめると、ゾナとアールの金色の髪が絡み合い、一つになった。
 アールの吐息を耳に受けながらそうしていると、ゾナは自分がパンドラになってしまったのか、アールも人間であるのか、自分とアールの種族関係が分からなくなった。ただアールの体温を感じ、呼吸を耳にし、心臓の鼓動を交し合った。
 時間の経過すら不明確になったが、ジョンの窓をノックする音でゾナはアールから離れた。
「昼飯のついでに、アールの服も買ってきたよ。あちこち破けてるし血だらけだ、着替えないと。それにしても女の子の服は高すぎる。僕が五人居ても女の子一人分には及ばないと思う」
 アールは衣類の入った紙袋を受け取ると覗き込んだり臭いをかいで素性を探り、ゾナはレシートを受け取って目を丸くした。
「わざわざブランド物を選ぶからだ。私だって知っているぞ、これは流行の値段の張るブランドだ」
 ジョンは眉をひそめた。
「知らなかったんだよ。妹に服を買ってやるって言ったら、色々セットにしてそれを渡されたんだ」
「買い物が下手だな」
「よく言われるよ。僕は外で待ってるから、着替えさせてやってよ」
 ブランドのロゴが大きく印刷された紙袋をひっくり返すと、上下の衣類に合わせて靴やスカーフまで収められていた。赤い靴はアールには大きく、使い物にならなかった。
 ゾナは自前のツールナイフで洋服についたタグを切り外し、狭い車内でアールの着せ替えを始めた。
 方々に血の着いた服を脱がせると、アールの裸体は人間のそれと遜色ないものに見えた。細い肩も目立たない胸の膨らみも整った形のヘソも、胸に印刷されたような”R”の文字とそれに続く三桁の数字の羅列がなければ、女性同士特に注目するような点はなかった。
「博士、このアルファベットは?」
 ジョンは一瞬振り返ってサンドイッチを食べる姿をあらわにしたが、慌てて車に背を向けた。
「それはー、要するに型番だよ。AからYYYまでの雛形があって、どのタイプのパンドラかがアルファベットで分かる。数字のほうは個別の識別番号で、どっちも初期のパンドラにだけつけられてる。途中でわざわざそんな事をしなくてもDNAが識別番号になってる事に気がついたんだ」
 ジョンの言葉はサンドイッチを食べながらであるためか、口ごもっていた。
 難航した着替えが終わると、アールはゾナと共に車から降りて早くも何にもつかまらずに自分の足で立って二人を驚かせた。
「予想以上の早さだ」
「悪くない買い物だったな、博士。見直したぞ」
 アールは別人のようにとまではいかなくとも、ジョンの母親が若い頃に着ていた服でそろえた間に合わせの衣装に比べるとだいぶ印象が明るくなった。
 丈の長い青いスカートは厚手の生地で冷気を防ぐのによさそうだし、長めの袖を持つ白いブラウスは手の甲までかかるので右腕の傷跡を隠すのに好都合だ。腰につけた皮製のポーチも存在を主張している。こうなると靴だけが古く汚れている事が目立った。
「そのポーチはいい。サプリメントはアールが持つといいね」
「見るべきところはそこか。博士は独創的だな」
 ジョンは大げさに肩をすくめてみせ、新調されたアールを見て高鳴る胸の鼓動を押し隠した。
「古い服はここに捨てていこう。その靴も。もう一度あの売り場に行く勇気は僕にはないよ」
 三人は車内に戻り、パンと紅茶の食事を済ませた。パンは野菜の多いサンドイッチと黒砂糖の利いた黒パンで、アールの分にはさらに苺のジャムが塗られてカロリーを補われた。ジョンとゾナが地図を広げて道程を確認し合いながら食べたため、車内はだいぶパン屑で散らかった。
「すぐ近くに駅があるから、それで町を出よう。アール、脚は大丈夫かい?」
 車から降りてジョンが聞くと、アールは軽く飛び跳ねて無事をアピールして見せた。
「デパートの正面入り口から出ればまっすぐ進んで駅に出るよ」
「違う、西口だ」
 地図はジョンの手からゾナへと移った。
 やや暗い感を否めない地下駐車場からエレベーターで一階の売り場へ上がると、化粧品売り場に特有の鼻をくすぐる匂いと方々の鏡が乱反射する十分すぎる量の蛍光灯に、アールのみならずゾナにジョンまで気押された。音の騒がしさは控えめだったが、光彩と香の喧騒が昼時のオフィス街さながらだった。
 アールは目に映るもの全てに目を見開き、これは何かとジョンに尋ねたが、ゾナが手を引いて店内を強引に進むために、満足な回答は得られなかった。仮に時間があってもジョン自身口紅程度ならば説明が出来たが、化粧水はただの水にしか見えなかったし、ファンデーションの種類の違いなど分からず、ビューラーの使い方など見当もつかなかった。ましてアイラインを引くためのアイライナーペンシルなど、筆記以外の用途が思い浮かばなかった。
 デパートを抜けると音の喧騒に取って代わり、三人に休む暇を与えなかった。アールは初めて外に出たときの事を、ジョンに出会う前の事を思い出し、不安を覚えてゾナの手を強く握った。
「みんな忙しいのね」
 休むことのない音楽か、途絶えることのない車の列か、我先にと歩みを早める歩行者か、歩行者の群れを突き破って罵声を浴びる自転車か、アールは特に何を指すと言うわけでもなく、漠然と呟いた。
「ああ、忙しいね。世界博覧会のせいでこの大騒ぎだ。毎年博覧会が開かれるんだとしたら、この星はうるさすぎて宇宙人に苦情を言われそうだね」
「そうならない為に間を空けて、毎回異なる国で開催しているのかも知れないな」
 ジョンとゾナが笑い、アールもよく分からないまま笑った。
 駅が近付くにつれて人数が増え、アールより先に異邦人ゾナを困惑させた。ゾナは度々足を止めて地図を確認し、合衆国の喧騒に愚痴をこぼした。
「僕が出不精なわけが分かるだろう」
 ジョンの言葉にゾナは心の底から同感した。
 駅は博覧会に合わせてか改築中で、どの通路も半分は白い壁で隠されてその中からハンマーで何かを叩く音や重いものを引きずる音がしていた。広い構内を縦横無尽に人が行き交い、アールには誰一人ぶつかり合わずに居ることが不思議でならなかった。
「この路線を使えば直通で行ける。これで行こう」
「博士、アールの切符は大人用でいいのか?」
 ゾナとジョンはアールをつむじからつま先まで眺めた。
「多分、アールを子供だと思ってくれる人は居ないね」
「確かに、ここで子ども扱いするべきではないな」
 ゾナが財布を受け取って切符を買いに行くと、ジョンはアールと共に長い年月の埃と煙草や車の煙で汚れた壁に手をつけた。
「人ごみは苦手だよ。疲れる」
「私も疲れるし、頭が痛いの。みんなもだからあんな顔をしているのかしら」
 行き交う人々の表情は晴れず、人の数がなければ世界博覧会と言う国家事業が目前に控える高度成長期にあるとは誰にも思えなかった。
「そうだね、みんなも疲れているんだ。でも君の頭痛は他に原因があると思う。つまり、これは新しい環境に適応するために脳細胞内で盛んにネットワークが形成され、爆発的な成長をみせているのに、頭のほかの部分は大きくならないから、圧力に逃げ場がないんだ」
 ジョンは言葉を続けようとして、アールの理解していない眼差しに気がついた。
「また一人で突っ走った。駄目だな、僕は。君のあらゆる言動が科学者としての僕を刺激して、暴走させる。でもそれは君に対して失礼なことだ。よし、決めた。アール、僕は君の前では科学者であることを辞めるよ」
 そこまで言ってジョンは以前テレビドラマで見たことのあるような笑顔を造って見せたが、肝心のアールはジョンのはるか背後にある電光掲示板の発着情報の明滅に見とれていた。
「発車は十分と少し。列車は三番ホームに停車しているそうだ」
 戻ってきたゾナから切符を受け取ると、アールは興味を切符に移して裏返したり光に透かしたりした。
「これは何をする道具なの?」
「後で車掌に見せるんだ」
 その説明でアールが納得するかはともかく、ゾナにはそれ以上に適切な説明が思い浮かばず、アールもそれ以上の説明を要求しなかった。
「お菓子ぐらい買っていこうか。小腹が空くだろうし」
「あれはライザ達の事か」
 ゾナが指差す先には大型のテレビが備え付けられており、アールの目を輝かせた。画面には焼け焦げた部屋が映っており、管理人と思しき禿げた男が鼻を膨らませて”いたずら”の首謀者への怒りを口にしている。画面が切り替わって女性キャスターが登場すると、抑揚のない声でいたずらではなく学生運動の過激派の内部紛争によるものと見られている旨を告げたが、改めて写された現場の写真は、明らかに三人が逃走してきたあの部屋であった。
「情報操作か」
「そんな大げさなものでもないんじゃないの?」
 ジョンは否定したが、ゾナは画面が切り替わって別のニュースになるまでテレビを見据え、ライザらが属してもいる合衆国与党の政治的権力の力強さを嗅ぎ取ろうとした。アールは内容も分からないままにテレビの画面を凝視した。

 切符は自由席のものだったが。四人が向かい合って座る事の出来る一角が空いており、三人はゾナとアールが並ぶ形でそこを陣取った。窓際に備え付けられた折りたたみ式のテーブルが広げられ、コーヒーや菓子が並べられて旅行中のような空間が作られた。
「ずいぶんと人が少ないな」
「その方が気楽でいいよ。人ごみはもう十分」
 構内とは打って変わって閑散とした車内にあって、方々に顔を突っ込んで好奇心を示すアールの挙動は目立ったが、そのアールに注意を払う者も居なかったため、二人は好きなようにさせた。
 やがて発車のアナウンスに続いて電車が動き出すと、アールはため息をついて流れ出す窓の外の景色に釘付けになった。
「誰も運転しなくていいのね」
「運転手は別の所にいるんだよ。僕達は座ってるだけでいいんだ」
 アールは聞いているのか、右手に流れて消えていくビルの数々に目を奪われていた。
 その姿には外見に相当する落ち着きがなかったが、意識を持ってからの時間の短さを感じさせる未熟さもなかった。
「カメラの一つでも買っておけばよかったな。アールは絵になる」
 ゾナがなんとはなしに放った言葉に、ジョンは深く同意した。絵になるかどうかはともかく、写真に撮ればアールが喜ぶだろうと思って。
 列車は都会から逃げるように歩みを早めたが、道路と交わらないように持ち上げられた線路から見下ろす都会に途切れる気配はなかった。窓の外を巨大な看板や独創的なビルが流れて消えるたびに、ジョンとゾナはアールに説明してやらなければならなかったが、共に不快ではなかった。アールも説明を復唱して知識を刻み込んだ。
 やがて終わることがないと思われた都会を抜け、直角な建物の間に開けた土地が目立つようになり、草原の間に点在する牧場や畑、川が視界を占めるようになると、アールは改めて世界の変貌に驚いた。このときばかりはアールの体温が高いのは生まれついてのものではなく、興奮によるものだった。
 時間が経ち景色が牧歌的なもので固定されて単調になると、太陽もそれに飽きたといわんばかりに陽を傾かせた。列車が目的の駅に止まる頃には草原や林が赤く染まり、レンガ造りの駅は燃えているかのような色彩を放っていた。
 三人は荷物をまとめて降りると、長い間座っていたために固まった筋肉をほぐすために体を伸ばし、冷たい空気を吸い込んだ。
「人間って凄いのね。こんなものを作ってしまうなんて」
 列車を見送りながら、アールは言った。アールの横顔も他の全てがそうであるように太陽に平等に緋色に染め上げられ、顔の輪郭が背景となる田園の風景と交じり合った。そんな中でその青い瞳だけが、太陽にも負けず、澄んだ青さをたたえたままだった。
 アールを見てジョンはああ、と思った。
 ああ、僕はこの子に恋をしたんだ。
 ジョンははっきりと自覚した。


   六 ホテル
 逃走は三人より遅れたものの、アレックスとライザは三人よりも先にホテルに着いていた。
 車は軍用に改造されているものの概観は一般的な軍用車で、割れてなくなったフロントガラスと銃弾を受けた後部のバンパーがなければ、ただの旅行者の車に見えた。
 アレックスがドアを閉めると車は小さく悲鳴を上げ、車体を揺らした。
「ここまで頑張ってくれたんだから、優しく扱うべきね」
「普通にやったつもりだったんだがな」
 アレックスは左右のポケットをまさぐり煙草を探したが、どこにも存在を認められなかった。
「そのまま禁煙しちゃいなさいよ。健康的だわ」
「素敵なアドバイスだ。俺がもう三〇年も生きたら考えよう」
 日はだいぶ傾き、夕日ではないものの、二人の影は長く伸びて並木道の樅の木と背を比べた。
 二人は冷気を帯びた風を合図にホテルに向かって歩いた。ホテルは古い時代に建てられたもので、部分的な補修をいくつも重ねてきたが、日に焼けたかつては純白であった壁やモザイク模様の赤茶けた屋根は、言い逃れの出来ない老齢を示していた。それほど大きくもないため、これまで脚光を浴びることもなく、王国を遠巻きに囲む並木道に建つこのホテルは常にひっそりと息を潜めてきた。
 門は重厚な艶のある木で作られていたが、開閉に難儀することはなかった。
 ライザは肩から大型の衛生電話を吊るしていたが、それは流行のバックに似せて作られていたため、狭く滞在者同士がすぐに親近感を覚えそうなロビーでくつろぐ家族連れや一人旅と思しき体つきのいい若者にも気を止められることはなかった。
 ホテルは経営の規模も小さく、サービススタッフは居ないに等しく、ここではフロントで受付を済ませた後はセルフサービスが常であった。しかし経営者が二人の属する民主党派の退役軍人がであり、今回の件についても既に党から連絡が入っており、二人にとってここは現在最も安全な場所と言えた。
 ライザは古いがくたびれていないフロントのカウンターを手をかけ、それと同じく年老いたが尚血色のよい顔立ちをしたフロント係に暗号として使われる偽名を告げ、車のキーを渡した。二人に与えられた部屋は通常は使われていない一階の奥の部屋だった。
「景色は楽しめないな」
 アレックスはやわらかい明かりをつけ、見るつもりもない窓がないことに毒づいた。
 部屋は簡素なツインルームで、手前にベッドが二つある空間があり、奥にも同じような空間があった。いずれも小さなもので、丸いテーブルと椅子のほかに衣文掛けと背の低いタンスがあるぐらいで、クリーム色の壁紙と合わせて簡単なつくりになっていた。
 少し硬いベッドの上にアレックスの荷物が投げられた。
「乱暴はよくないわね」
 ライザは精密な機械を慎重にテーブルに下ろし、組み立てを始めた。
「四人部屋だな。ジョンの従兄弟には外で寝てもらおう」
「あなたが床で寝るほうが現実的よ。清き一票を投じるわ」
 テーブルの上に衛生電話が本来の形を取り戻し、アンテナが立てられると四インチの液晶画面にノイズが走った。
「ジョン達が来る前に報告を済ませておかないとね」
「後でも先でもどっちでもいいだろうよ」
 アレックスは全館禁煙の注意書きを恨めしそうに眺めた。
 一度目の通話のときもアレックスは興味を示さなかった。それは車に乗っての逃走中の事で、本人に言わせれば運転に集中するためであったが、ライザに言わせれば職務怠慢であった。
 二人が車でホテルを目指す間、道路に車の数が少なくなってきた頃に追っ手が現れた。
「ワルかった頃はこうやって警察を撒いたもんだ」
 アレックスはゾナにマヨネーズを取らせると、その中身を後方から忍び寄る車に浴びせかけさせた。マヨネーズをフロントガラスに受けた車は当然のようにワイパーを動かしたが、マヨネーズが拭われるどころか薄く広がって視界を奪い、蛇行しながら窓から身を乗り出した男が発砲し、間もなく路肩に停車しているバンに衝突した。
 しかし追っ手は車一台に終わらず、車に併走していたバイクがスピードを上げて二人の横につき、

アレックスが企みに気がつくよりも早く特殊な棍棒でフロントガラスを叩き、クモの巣のようなひびを走らせた。
「やってくれるじゃねえか」
 アレックスは手馴れた様子でフロントガラスを内側から破って視界を回復すると、ダストボックスの中のビー玉の海に手をいれ、つかめるだけつかんでから道路にばら撒いた。
 ビー玉に慌てたのか、ビー玉にタイヤを取られたのか、バイクは汚い言葉を上げて横転した。
「ざまあみろ」
 追っ手の気配はなくなり、アレックスは振り返って実際に追われていないことを確認した。
「前を見て!」
 ライザが叫ぶとアレックスが注意を取り戻し、前を走るダンプカーと衝突を避けた。
 その後は追われる事もなく安全に運転する事が出来たが、火のついたアレックスを鎮める事は出来ず、荒々しい運転でホテルに到着したのだった。
 衛生電話のモニターからノイズが消え、二人の上司の角ばった姿が映し出された。顔も髪型もノリの利いた制服もベレー帽も、全てが四角をなぞったかのように作られていて、あだ名はミスターキューブだった。
「まずは諸君の無事を祝福しよう。必要以上に暴れてくれた分については給料から引いておく。国費は痛まん。安心しろ」
 ミスターキューブは穏やかに言ったが、ライザから報告を受け取ると、表情を含めてより四角くなった。アレックスによればハイパーキューブ状態に当たる。
「博士らの行動については我々も把握していない。個人タクシーか電車に乗り換えたのだろうが、例のアパートに併設するドラッグストアから車が盗まれ、数ブロック先のデパートで発見された。共和党の手が回る前に回収したが、現場に女性物の衣服や靴が残されていた」
「あいつは軍人じゃないし、ゾナも軍人とは名ばかりの王室警察みたいなもんだし、そこまで頭が回らなくてもしょうがないんじゃないですかねぇ」
 アレックスは三人をかばうというより、単に思いついたままに言ってみた様子だった。ミスターキューブも姿勢を崩す事無く、気にする様子はなかった。
「博士の従兄弟だと言うアールと名乗る女性についてだが、一切の記録を見出す事は出来なかった。その女性の映像資料を用意出来るか?」
「難しい注文です。とにかく今は持っていませんが、博士とは全く似ていません」
「善処を期待する。その女性にはくれぐれも気をつけて欲しい」
 ライザは了解し、部屋の電話が鳴ったのを聞いて一言で通話を終わらせた。
「こちら秘密の部屋。ご用件をどうぞ」
 ただ近くにいたからと言う理由だけでアレックスが受話器を取り、フロントに対して殊更丁寧な口調で応えた。
「外国人のお客様ですが」
「誰だ」
「女性が二人と、男性が一人です」
 はっきりしない言い方に苛立ったが、ロビーに客がいる事を考えると堪えるしかなかった。
「ジョン博士はいるのか。細い、そうだな、秋の大麦みたいな雰囲気の男だ」
「少々お待ちください」
 受話器の向こうでジョンの名前が確認され、ジョンらしき男がはいと答えるのが聞こえた。
「博士と、アールさんとゾナさんです。お通ししますか?」
「もちろんだ」
 部屋は既に片付いており。衛生電話があった事など微塵も感じさせなかった。
「そっちが先についてるとは思わなかったけど、それでよかったよ。フロントで止められちゃって」
 三人は夜道を歩き疲れた旅行者と言った風情で和やかに部屋に入り、アレックスとライザも同じような表情で迎え入れたが、アールに対しては瞬間だけ探るような目を向けた。
「窓はないのね……」
「なくてもいいよ。どうせ締め切っておくんだから」
 ゾナと親しくしている。初対面のときと服装が変わっており、デパートに残されていたと言う衣類が思い出された。
「途中に博士がアールに服を買ったんだ。しかし、これがとんだ笑い種でな」
 軍人の厳しい視線に気付いてか、ゾナは笑顔を作ってジョンの失敗を説明した。しかし何故服を変えなければいけなくなったのかについては触れられず、ライザもアレックスも言及しようとしなかった。
 アレックスはゾナの話になど興味はなく、隠し立てする事無くアールを観察し、作り物のようだ、と評価を下していた。少女から女性に変貌する途中の非現実的な魅力を保ったまま固定されたようで、よく拡大と収縮を繰り返す虹彩はカメラのフォーカスのようだったが、生き生きとした輝きを放っている。
 まるで観賞用の熱帯魚だ。スパイはおろか、事務、技術職、スポーツ、研究、何一つ実用的な能力を発揮出来ないに違いない。
 そう結論付けると、アレックスはアールに対する緊張を解いた。
「これは電話ね。ジョンのお母さんとも話せる?」
 アールはひとしきり部屋の中を駆け回って一つ一つの発見に騒いだ後、備え付けの電話を取り上げた。
「それは内線専用だから外には繋がらない。良くも悪くも俺達は隔離されてるって事だ」
 アールは声をかけられて初めてアレックスとライザに気がついたらしく、慌てて二人に握手を求めた。
「アールです」
 それは握手と言う文化を知ったばかりなので早く使いたいと言う望みから出た行為だったが、アレックスは快く応じた。
「俺はアレックスだ、よろしくな。風邪ひいてるのか? 熱いぞ」
 アールは言葉の意味がよく分からない様子ではいと答えた。
「体が丈夫じゃないんだよ。だからしょっちゅう熱を出すんだ」
 ジョンの発言は余りにも不自然だったが、不自然すぎるゆえに詮索する気も起こさせなかった。
「それより追っ手を連れてこなかっただろうな。こっちはくろうして撒いたんだぜ」
 アレックスはライザからコーヒーを受け取ると、全員にコーヒーが行き渡るのを待って意地悪く尋ねた。
「つけられてはいなかったと思う」
「大丈夫だよ」
 ゾナは控えめに、ジョンは自信を持って安全を主張した。
「とにかく、全員無事で本当によかったわ」
 ライザの言葉を合図に小さな乾杯が為された。アールも見よう見まねでコーヒーを掲げ、口に含んでからその苦味に顔をしかめた。
 きっとそう言う子なんだろう。
 ライザもアレックスも見解をまとめ、アールに対する警戒を解いた。
「王国に入って研究所だか工場に向かうと聞いたが、どうするのだ」
 ゾナが聞くと、先ごろまで衛生電話が陣取っていたテーブルに国境付近の地図が広げられた。地図に記された王国の名前がゾナの心に漣を立てた。
「私の国だ……この地図にはまだ残っているのだな」
 王国と合衆国の地理的な関係は、古い時代の階級闘争に端を発していた。
 もともとは合衆国の領土全体が王国の領土であり、現在王国が領土としている湖の中心に浮かぶ島は首都であるに過ぎなかった。しかし工業発展に伴い労働者が力を蓄え、重税を強いる王国からの独立を主張し、それを封じ込めようとする王国軍と戦い、首都に封じ込めたときに合衆国の設立が宣言され、現在の地理が固定された。現在の友好な政治的な関係について言えば、相次ぐ世界大戦が自由と平和を求める共通の理念が両国を結びつけ、今日に至るまで関係が維持されている。合衆国の歴史の教科書ではそのように説明されている。
「国民が残っているなら国も残ってるよ」
 ジョンの発言は合衆国の理念から来るもので、王国の臣民たるゾナの感銘を得る事はなかった。
「私達はここから一番近い南側の橋を使って王国に入国するわ。ゾナには悪いけど、入国審査は免除させてもらうけど。そのまま東の森林地帯、経済特区、あるいはフリーゾンね。ここのパンドラ製造工場に潜入する予定よ」
 ライザの口調は一切の装飾を帯びていなかったが、アールにはパンドラの語だけが鮮明に聞こえて、読むことの出来ない地図からライザへと視線を移した。
「もちろんアールにも来てもらうわよ」
 ライザは意味を取り違えてにこやかに答えた。
「予定が早まったり民間人の突然参加が決まったり、全く楽しいピクニックになりそうだ」
「せいぜい楽しいコースを選んでみるよ」
 工場内の案内役を買って出ているジョンが言うと、荒れ屈す葉笑った。
「アールにも楽しいピクニックの予定手順をあらかた教えておいてやろう」
 その発言はライザを驚かせたが、アレックスの口から重要な細部に至る情報が漏れる事はなかった。
 第一に国境警備隊から装備を受け取る事。第二にジープで森を抜けて工場に向かう事。第三に工場に侵入し軍上層部が求めている資料を回収する事。第四に無事に帰還する事。
「簡単だろ? ジョンとアールも何か用があるらしいが、それを合わせても半日もかからないだろう」
「そのことなんだけど、ジョン。単独行動は認められていないし、私達にはあなたが何をしたのか報告する義務があるの。これはドーソン教授からの進言でもあるわ。その用事に参加させてくれるかしら?」
 ジョンは予期せぬ言葉を受けてたじろいだ。
「僕は別に隠すつもりじゃなかったし、機会を見つけて二人にも言うつもりだったんだ。だから、二人がいてくれても構わないよ。もちろんゾナもね」
「ドーソンキョージュって誰なの?」
 アールはドーソンと教授の間の区切りが分からないらしく、ゾナから耳打ちされてしきりに納得したが、アールの単純な反応からたいした説明ではないと思われた。
「何か確認しておきたい事はある?」
「パンドラはどの程度まで広がっているのだ? 工場は国境付近に位置するが、ここも既に危険な区域に?」
 ライザは言葉で示すより先にコンパスを取り出し、城を中心に円を描いた。アールがコンパスに関心を示すと、そのまま貸して遊ばせてやった。
「ドーソン教授が割り出した範囲よ。そしてこれが」鉛筆で円の近くにいびつな円を重ねるように点を打っていく。「二日前に警備隊と陸軍で極秘に調査したパンドラの進出範囲よ。大方教授の予想通りね」
 二重の円は工場のある森林地帯にかろうじてかかる程度で、特に点線の方はいびつに引っ込んだり突出しており、風邪薬のコマーシャルが演出するウイルスのような形をしていた。
「国道に沿って突出しているな」
 ゾナが素朴な発見を口にした。
「進んでないほうにも理由があるよ」
 ジョンは誰に聞かれるともなく、アールがコンパスで怪我をしないか横目で見守りながら言った。
「畑や牧場、とにかく食べ物があるはずなんだ。彼女達は僕ら以上に食べ物を必要とするから、この円も食べ物の捜索範囲だと考えたほうがいい。アリみたいに探して、巣、つまりお城に持ち帰るんだ」
 アレックスが発言を求める学生のように手を上げると、ジョンも同じように発言を促した。
「聞いた話じゃパンドラにはアリのDNAを使ってるらしいな。それとこの行動には関係があるのか」
「ないと思う。これは進化の収斂なんだ。つまり、生き物がより効率的な生き方を探していくうちに、似たような生態を取ることがあるんだ。例えばジャングルの豹と海辺のヒョウガラエイは同じ模様をしているけど、同じ先祖から進化したわけじゃない。アリとシロアリもそうで、アリの先祖はハチでシロアリの先祖はゴキブリなのに、女王を中心にほとんど同じ形の社会を構成するんだ」
 アレックスは聞かなければよかったという風に気のない相槌を打った。その様子からジョンは喋りすぎた事を察し、話を切り上げた。
「とりあえず食事にしましょう、私はお腹がすいたわ。作戦開始は明日の夕方よ、まだまだ時間はあるわ」
「そうだな、私達もまともな食事は久しく食べていない気がする。窓はなくても料理は期待していいだろうな?」
 ライザとゾナの提案で食事が注文され、コンパスに飽きたアールも交え、ささやかな団欒の用意が始められた。


   七 工場
 辺境用に改造されたトラックに乗って王国西側の架橋からパンドラ工場を目指す六人構成の小隊の姿が月明かりに照らされていた。彼らは合衆国の軍人で、全員で一台のトラックに収まり、備え付けられた機関銃で辺りを警戒していた。
 指揮を取っているのはユージーン大佐で、共和党派に属していた。僻地の日光で焼けないためだと言って伸ばしているヒゲと、始終噛んでいる噛みタバコで黄色くなっている歯に、今尚第一線で活躍するボディビルダーのようにたくましい肉体が特徴で、およそ月明かりは似つかわしくなかった。
「大佐、本当に我々だけで大丈夫なんでしょうか」
 若い部下は何かに怯えていた。
「ばかやろう。お前らが持ってんのは何だよ。オモチャか? パンドラだか何だか知らねえが、鉛玉を弾き返すわけじゃねえだろうが。民主党のこそつき屋どもの事も気にする事はねえんだよ」
 ユージーンは生まれついての快活な声で言ったが、部下の不安を拭い去る事は出来なかった。
 豊でのどかな自然と緩やかな時間。
 観光パンフレットに記されたとおりの景色は、人生を終えようとしている老人には心の癒しとなっただろうが、人生を謳歌するユージーンには単調で退屈なものでしかなかった。野生化し始めている家畜の姿も、本来あるべき作物よりも雑草のほうが勢力を増し荒れている畑も、何もかもがつまらなかった。
 いっそパンドラが現れれば面白くなると思われた。
「パンドラの姿は見られません」
 赤外線ゴーグルで監視を続ける副官はユージーンの退屈を察したように告げた。ユージーンは噛みタバコを吐き捨てて新しいものと交換した。。
「少し東に行ってみるか。パンドラに会えるかも知れねえぞ」
「無用な危険を冒すべきではありません。民主党も動いていると聞きますし、寄り道をしている余裕はありませんよ」
「パンドラってのは犬みたいなもんあんだろ? ビビる事ぁねえって」
 任務に際して与えられた部下達は若く、ユージーンと面識のない者ばかりだった。その為かユージーンの人を食ったような笑顔にも緊張をほぐすことはなく、銃口をトラックの荷台から外に向けたまま神経を尖らせていた。
 ユージーンは不貞寝を決め込もうとしたが、小声で報告を受けてゴーグルを受け取って確認すると、全身を駆け巡る緊張に体をしびれさせた。
「こいつはすげぇな。あそこまで行け。これもじょーそーぶへのほーこく、ってやつのためだ」
 本道からは少しそれたが、トラックは道路と草地の段差を乗り越えて道を外れ、なだらかな丘陵にある牧場に向けて移動した。
 現場にたどり着いてトラックから降りると、全員が銃を構えて四方に目を走らせた。
 牧場には羊と牛がいたと思われたが、今やその痕跡は乱雑に散らかされた引きちぎるように解体された死体にのみ認められ、月明かりの元では黒い血痕が、LEDの明かりを受けて鈍い赤色をあらわにした。散らばった肉片や骨に内臓にハエが飛び交い、異臭を放っている。
「二、三日と言ったところでしょうか」
 ユージーンは頷いたが、それについての知識があるわけではなく、単にそう思っての事だった。
「ばか力だな。俺だったら顎が壊れちまう」
 千切れた毛皮には鋭い牙の跡が残されており、今にも解体の惨劇を再生出来そうな雰囲気をかもし出していた。
 ユージーンが指示を出すと、カメラを担当する部下がストロボを焚きながらシャッターを切り、そのたびに血痕と肉片が人間の目にも焼きついた。
「うおおお!?」
 突然誰かが発砲すると、全員がその場に伏せた。
「どうした!」
 発砲したのは運転士で、その音は広い平野に間抜けに響いて消えていった。
「今、何かが動いて……」
 ライトが運転士の指差す木立を照らし、互いの呼吸が耳に近く感じられるような緊張が走った。
 風が腐臭を洗い流したが、すぐに新たな腐臭が立ち込めた。
 このとき彼らが有していた火力は、自動小銃を携帯する者が二名で、ユージーンを含む残りの四人は通常配給されている銃を携帯しているばかりで、トラックには対物機関銃が二機備え付けられているものの、およそ一ヶ月前にゾナがこの国を守るために用いていた装備にも劣る装備だった。
 不意に羊が木立から姿を現し、口をもごともごと動かしてからユージーン達に向けて一鳴きし、暗闇の中に姿を消した。
 ため息をつく声が聞こえた。
「す、すいません、俺、勘違いして……」
「気にすんなって。とっさに撃てねえで死んでいった奴を何人も見てる」
 ユージーンは運転士の肩を叩き、トラックに戻るように全員に指示を出して黒いシルエットとなって浮かび上がる木立を見続けた。
 何も動く気配はなかったが、確かにそこには羊以外の何かが居たような気がする。
「マジもんだな、こりゃあ」
 ユージーンの退屈が吹き飛んだ。
 トラックのディーゼルエンジンがかき鳴らす音楽は長らくこの土地に聞こえていなかったもので、夜行性の動物の注目を浴びた。
 林道に入ると月明かりが届かなくなり、ヘッドライトが点けられた。明かりを受けて一瞬だけ虫の音が止んですぐに騒がしさを取り戻したが、ユージーンたちの耳に届くのはエンジン音とタイヤがアスファルトを擦る音だけだった。
 ヘッドライトが闇を切り裂いて、暗がりの中から林の中には似つかわしくない人工的な白い直線を切り取った。それは目的の工場で、林の一角を伐採して設けられた空間をフェンスで囲い、その中に孤独を好む老人のようにたたずんでいた。
 ユージーンはトラックを近くの茂みの中に停車させると、フェンスの入り口に設けられた入り口にかかる鍵をプライヤーで切断した。フェンスが開かれると長い間風雨にさらされていた蝶番が悲鳴を上げ、開かれたきり閉まらなくなった。
「構うな、どうせ俺の家じゃねえ」
 情報によれば工場には正面ゲートの他にいくつかの非常口や従業員用の小さな出入り口が設けられているが、いずれも全ての窓がそうされているように、鉄板とコンクリートで撃ち固められていて使い物にならなかったので、正面ゲートから入るより他に道はなかった。
 コンテナの搬出も行う正面ゲートは巨人の口のように巨大で、その前に立つと断崖のような錯覚を与えた。巨人の口の脇にはIDカードを読み取る機械があり、アクリルの蓋が土埃にまみれることで機械を守っていた。
 あらかじめ用意された偽造IDカードが機械の中を通ると、太陽光発電で蓄えられた電力で正面ゲートがアリの行進のような速度でゲートを左右にスライドさせ、その内部を明らかにした。
「明かりは点かないのか」
 閑散として何も残されていない搬出口をLEDの冷たい光がなぞり、床に当たってはコンクリートの無機質な肌を照らし、危険を伝える標識や非常消火装置の赤いランプが小さな明かりの円の中に浮かんでは消えた。天井にはいくつもの水銀灯が吊り下げられていたが、明るくなる気配はなく、むしろ重苦しい暗闇を投影しているかのようだった。
 ユージーンは地図を広げさせて電源を管理するものを探した。それは工場裏手の広場の片隅にあり、分かりやすく”ブレーカー”と記されていた。
「まずは電源の回復だ。それが終わってから書類の回収と化け物の解放だ」
 後者については誰一人乗り気ではなかったが、それが上層部からの指示である以上、従わないわけにはいかなかった。
 全員が工場に入るとゲートは内側からの操作で閉じられ、完全な暗闇の中を六本の光線が駆け巡った。
 空気が埃っぽく乾燥しており、無臭であるために無臭と言う名の臭いが感じられそうだった。
 正面ゲートから裏口までは一直線の通路で繋がっており、通路は左右にいくつもの扉を構えていたが、いずれもIDカードを認識して開閉するために電力を必要としていた。通路はコンクリートが打ちっぱなしのゲート内とは異なり、白い清潔な廊下と白い壁に各部署への案内が貼られており、どこか食品加工工場を連想させる雰囲気だった。
 裏口の広場に出る扉は手動で開閉するもので、「運動試験場。開閉時に注意」と書かれた標識がマジックペンの二重線で訂正され、すぐ下に手書きで「森林浴場」と書かれていた。
「テニスでもやってくか? 冗談だよ、んな顔すんなって」
 扉は不機嫌な音を立てて押し開かれた。
 森林浴場と呼ばれる広場には人工的な森林が茂っており、扉の前に僅かに開けた空間が広がっている他は、この土地に自生していない植物をいくつか認められるだけで、目を引くものはなかった。
 どこかでフェンスが破れて動物の出入りが自由になっているらしく、風とは関係なく茂みが揺れ、収まった。
 ”ブレーカー”の黒と黄色のストライプからなる、冷蔵庫のような機械然とした佇まいは薄暗い中にあっても目立ち、森林浴場にでてすぐ、左手の奥に見つける事が出来た。箇体には日に焼けた注意を促すラベルと南京錠が取り付けられていたが、南京錠はフェンスと同じようにプライヤーで切断された。
 風雨をしのぐ蓋の裏には、素手で触っていけない旨の注意と、館内の電源の落とし方と、入れ方を示す説明が気が貼られている。LEDが配電盤を照らすと、几帳面に各部署ごとにラベルが貼られ区分けされたトグルスイッチ群が明らかになった。説明書きの指示通りに左端から右端までの一二のスイッチが順番に上げられ、最後にメインと記された一回り大きなスイッチが上げられた。
 重い低音が向上を揺らしたような錯覚の後、茂みが揺れた。裏口の扉に点いた小さなガラス窓が明滅し、白い蛍光灯の明かりを放った。
「お前はここで見張ってろ」
 ユージーンは茂みの揺れが気になり、配電盤を操作した副官に指示を出した。彼は工場に入りたくなかったようで、笑顔を浮かばせて引き受けた。
 五人は速やかに工場内に戻ると、数年ぶりの精力を取り戻した工場から光の洗礼を受けて目を瞬かせた。通路の両脇に一定の間隔で供えられているドアは、IDカードを認識するために赤い目印を点灯させている。
「散るぞ」
 ユージーン以外の誰もが単独行動を望んでいなかったが、工場内にはパンドラはおろか生物の姿が認められないのだと己を律し、IDカードを手に手近なドアを開き、工場の奥へと侵入していった。
 ユージーンが目指すのは資料室で、管理職用の特別なIDカードを用いなければ入る事が出来ない区画にあった。当然に専用の偽造カードが用意されていたが、一つドアを開けて進むごとに枝分かれる通路について地図が詳細を記していなかったため、資料の捜索以前に部屋の捜索に時間を要した。
 工場内にはコーヒーの自動販売機が点在していた。かつて工場の職員の脳に刺激を与えていたこのカフェインも、今では中身が残っているのかもわからなかったが、効果が投入されるのを黙って待ち続けていた。
 やがてユージーンは資料室を発見し、手はずどおりに入室し、上層部が求める書類と光ディスクをアタッシェケースに収めた。
「お前らは終わったか」
 無線で連絡を取ると、四人から書類を回収し、工場に封印されていたいくつかの人造生物を開放したと報告があった。しかしただ一人、”ブレーカー”の前に残った副官だけは無事を報告しようとした直後、叫び声を上げて発砲し、何かに襲われたような悲鳴を上げて通信を断ち切り、工場の電気が止まった。
 パンドラか。ユージーンは舌を打った。
「ちくしょう、こんなの聞いてないぞ!」
 続けざまに工場内の一人が叫び、発砲した。
「どうした、何があった!」
「ドアがロックされてます! 脱出出来ません!」
 混乱は伝染し、次々に発砲音がユージーンの耳に届いた。部下達の罵り声も聞こえてくる。
 彼らは自ら解放した人造生物と対峙しているらしかったが、銃で倒せない相手なのか、銃が当たらないのか、追い詰められていた。
 ユージーンは胸ポケットにしまっている衛生電話を取り出し、叩き付けるように上司とのホットラインをつないだ。
「閉じ込められた! 脱出経路はないのか!」
「ない。そちらで善処せよ」
 ノイズ交じりだが、感情のこもっていない声だった。
「こっちは殺されかかってるんだ! 何とか出来ないのか!」
 短い沈黙の後、ユージーンは低い笑い声を聞いたような気がした。
「サイバーストーン社は人間に有害な人造生物を製造していたと言う証拠だよ。この事実が明らかになれば、民主党は支持基盤を失う。よくやった、大佐。君だけでも無事に帰還できる方法を考えよう。恐らく応援部隊を派遣する事になる、そこを動くな」
 通信は一方的に切断された。
 無線からは部下達の悲痛な最期の言葉が聞こえてくる。
 一人は母親の名を呼び、一人はユージーンに助けを求め、一人はユージーンと政府を罵倒し、一人は神に祈りを捧げた。
 くそったれ。
 ユージーンは噛みタバコを吐き捨てた。

 アレックス達一行が工場に姿を現したのは、その翌日の事だった。彼らはホテルで十分な休息と食事を得て、互いを友人と呼ぶに差し支えない交流を果たした
「これは人間の仕業だな。俺が知らない間にワイヤーカッターみたいな歯を持ったビーバーが生まれたんでない限り」
 開かれたフェンスにぶら下がる鉄のワイヤーの断面は鈍くLEDを反射し、切断が最近の事であった事実として訴えかけた。
 アレックスの説明に驚いたのはアールだけで、ライザとゾナは辺りを探って茂みの中に軍用のトラックを発見した。
「博士、ここ最近利用者が居たのかしら?」
「まさか。いや、仮に居たとしても、それなら僕より君達のほうが先に知るはずじゃないか」
 ジョンは夜の暗闇に声が吸い込まれていく事を恐れるかのように小声で話した。
「パンドラ以外の敵でなければいいがな」
 ゾナは率先して工場の敷地に入り、四人もそれに続いた。
 アールを除く全員が銃を手にしていた。ジョンは銃の携帯に難色を示したが、子供のおもちゃのようなものだというアレックスの説得を受けて小さな拳銃をポケットに収めた。軍人三人はパンドラと戦った経験から自動小銃を携帯している。アールも銃に興味を示したが、ジョンに注意されて関心を持たないように努めた。アールの担当は緊急事態に備えての衛生品の所持だった。
「しかしでかいな」
 アレックスが工場を見上げて呟いた。
 ジョンは前に進み出てIDカードをチェッカーに滑らせると、カードを月明かりに照らして見せた。
「こう見えても僕は結構偉くてね。このカード一枚で館内の全ての部署に入る事が出来るんだ」
「ジョンは凄いのね」
 アールの言葉にジョンの鼻が高くなった。
 しかしピープ音が鳴るばかりで、扉が開く気配はなかった。
「お。リストラされたんじゃないか?」
「ま、まさか!」
 アレックスの冗談に思い当たる節があるのか、ジョンは慌てて何度もカードを滑らせた。それでも反応がないと、黙ってチェッカーをにらみつけた。
「……電源に異常が生じてるのかもしれない。ID番号の入力で開けば、そういう事だよ。これと冷凍カプセルはソーラーパネルの電力で動いてるんだ」
 ジョンが番号を打ち込む間、ゾナがLEDで手元を照らした。
 三度長く尾を引く電子音が流れ、扉が重たい腰を上げる老人のように左右に開いた。
「クビじゃなかったみたいだ」
 ジョンは力なく笑った。
 工場内を支配しているのは暗闇と沈黙で、物理的な圧力すら感じさせた。
「歓迎はされてないみたいね」
「ここの裏側にあるブレーカーを上げなきゃ電源は入らないんだ。それにしても心配だな」
「暗いのが怖いのか、博士」
 ジョンは頭を振った。
「電源系統に異常が生じているなら、冷凍保存していた人造生物が解凍されてる恐れがあるんだ。僕が異動した後に担当した飛び切り危険な奴を除外しても、安全じゃない奴はごろごろしてる」
 ジョンがしゃがみこんで木の枝で地面に絵を書き始めると、ゾナがその手元を照らした。
「こう言う……バージェス動物群って言う古生物をモデルにした奴でね。会社はこれでテーマパークを作ろうとしてたんだけど、肉食なものだから、断念したんだ。でもいつか軍部に売り込むつもりだったんだろうね。廃棄しないで冷凍保存してたんだから」
 その絵はおよそ現実の生き物とは思えない奇妙な形をした昆虫のようで、いくつか書かれたドレを取ってもジョンの空想の産物に見えた。
「すると中は危険なわけだ」
「もしかすると、だよ」
 ジョンはその可能性を可能な限り否定したい素振りを見せた。
「もしかするかも知れないわね。博士、私とアレックスが先に行って電源を入れてくるわ。それまでここで待っててもらえる?」
「……分かった。これが地図だよ。まっすぐ進んでここに行けばいい。どうせ途中のドアは全部開けられないと思うし。開いてても無視してよ」
 ジョンは地図を見ず、記憶を頼りに頭の中で通路を確認している様子だった。ライザは地図をたどってジョンの記憶に誤りがない事を認めると、頷いた。
「アール、お前も来い。一番不安な奴は手元で守っておきたい」
 アレックスの言葉にアール本人よりもゾナとジョンが凍りついた。
「アールなら私と博士で守る。それにもしもその生物がうろついていたら、危険だろう」
 ゾナはアールを引き寄せた。
「それも一理あるけど、さっきのトラックの件もあるわ。弱い人は手元に置いておきたいのよ」
「なら私も行こう」
「あんたが来たら博士が一人になっちまうし、俺達は博士まで連れて行きたくはない。博士がくるのは安全を確認してからだ」
「ぼ、僕なら大丈夫だよ。ほら、ちゃんと銃を持ってる」
 アレックスとライザはアールを連れて行かなければならない理由を押し隠し、強く主張を続けた。スパイの恐れがあるアールを自由にさせたくはなかったのだ。
 一方のゾナとジョンにおいても、何かの拍子にアールの正体が明らかになってはならないと言う理由から引き下がる事が出来なかった。
 四人の視線がアールに集中した。
 アールはジョンが書いた絵を眺めていたが、四人の視線に気がつくと優しく微笑んだ。
「私、一緒に行くよ。大丈夫」
「さすがアールは博士よりよっぽどいい子だな。ほんとに従兄弟なのか?」
 ジョンとゾナは自分達の望みが伝わらなかった事に絶句し、アレックスとライザの主張を受け入れざるを得なくなった。
「分かったよ……アール、くれぐれも怪我には気をつけて」
「了解です」
 アールがどこで覚えたのか古い軍隊式の敬礼をすると、僅かに場が和んだ。
「それじゃあ二人はジープで待っててね」
 アレックスを先頭に、アレックスとライザでアールをはさむ形に三人が暗闇の中に消えていくと、ジョンとゾナは何も言わずに立ち尽くした後、ジープに引き返して明かりが点るのを待った。


   八 アイデンティティ
「怖いか?」
 アレックスがLEDで周囲を探りながら廊下を進みながら聞くと、アールは笑った。
「とっても怖い。お化け屋敷に居るみたいなの」
 怖いの意味を履き違えているのだろうか。アレックスとライザも小さく笑った。
「地図、私が持とうか?」
 保護者から離れて浮き足立っているらしいアールは子供のように尋ねた。
「いや、お前さんはライトを持っててくれ」
「地図はアレックスに任せて。こう見えても彼、測量士の資格も持ってるのよ」
 アールはいくつかの単語に首を傾げたが、二人はそれを違う意味で捉えたらしく、意に介さなかった。
「じゃあ、私が銃を持つ?」
 一度拒絶されて尚積極的な姿勢は好印象を与えたが、二人は目配せし合って再び拒絶した。
「俺もライザも、根っからお前を信じてるわけじゃない。ひょっとするとお前はスパイかもしれない。銃を渡した途端に俺達を撃ち殺すかもしれない」
 殺す。
 その単語にアールは動揺し、何もないところで転んだ。
「アール、あなたの方から何もしてこなければ私達も何もしないわ。そして出来れば、あなたの事を知りたいの。何も知らないからこうして警戒してしまうのよ」
「私はここで生まれたの」
 助け起こされながらアールは言い、服についた埃を払った。
「この国の生まれだったのか」
 アールの首をかしげる仕種がちょうど頷きに見え、二人はそれで納得しておく事にした。
「教えてくれて嬉しいわ。今は銃を持たせてあげられないけど、仲良くしましょうね。これが終わってもっと仲良くなったら、射撃場で銃の使い方を教えてあげるわ」
 ライザが肩を抱いて言うと、アールは笑顔で応じた。
 三人の歩みは遅々として進まなかった。
 未知の生物との遭遇の危険が、錯覚かもしれない物音に敏感に反応させ、アレックスとライザが前方と後方に銃を構え、何も無いと確認されるまでその姿勢で硬直していたためだった。
 暗闇は時間間隔を奪い、アレックスは時計を確認して自分が緊張している事を知らされた。
 体感時間にして一時間、実際の時間にして二〇分、月明かりの元に出た三人は大きく伸びをした。アールは余り緊張していなかったためか二人の真似をしたに過ぎなかったが。
「どうやら先客が居たらしいな」
 アレックスはライザに目配せをして周囲を警戒したが、何も認められなかったのでブレーカーに注意を戻した。
 不法に開かれた配電盤と、そこに飛び散る血痕。
「まだ新しいわ」
 二人はLEDで血痕をたどって奥に生い茂る森林を照らしたが、何の姿を認める事も出来なかった。
「ライザ、直せるか」
「ショートしてるみたいね。一度リセットしなきゃいけなそうだけど、やってみるわ。アール、こっちを照らして」
「はい」
 アレックスは一人で銃を構え、森林を睨み続けた。ライザが機械をいじる音だけが夜に響く。
 茂みの中で何かが動いた。
「おい。居るぞ」
 アレックスは知覚するより早くその正体を見極めていた。
「あと少し。アール、絶対声を立てないで」
 ライザが了解して言うと、アールは返事をしそうになり、言葉を呑んだ。
 茂みの中から顔を覗かせたそれは、一見すると童話に出てくる狼男のようだった。理性のない赤い瞳、よだれの垂れた大きく裂けた牙だらけの口、毛むくじゃらの顔、全てがアレックスが子供の頃に遊んだゲームに出てくる狼男(物語のいいところで出てきて、なかなか強かった)にそっくりだった。しかし狼男ではない証拠に、体のほうは女性的な胸のふくらみを名残に残していた。
 人間と同じ体をしていながら、二足歩行を放棄した這いつくばり方。荒々しく口から漏れる吐息。見た目異常に強力な筋力を誇る四肢。人間よりも高い体温。
 それは紛れもなくQ型から生まれ王国を支配したパンドラだった。
 アールも黙ってそれを見つめたが、人間が空き缶を見たときのように、何の感情も沸き起こらなかった。
 パンドラがうなり声を上げて光の道をまっすぐに突進した。その走り方は犬のようだった。
「来たぞ!」
「あと五秒待って!」
「あいつに言え!」
 自動小銃が火花を散らして夜の帳を破った。
 パンドラは銃弾を受けて踊り狂い、その場にうずくまった。
 アレックスが何か言い、ライザが答えたが、アールは耳鳴りのために聞き取る事が出来なかった。
「行くわよ!」
 ライザがアールの手を引いて明かりの回復した工場に駆け込んだ。
「アレックス、もう一匹よ!」
 もう一匹のパンドラは虚を突くようにアレックス達の右手の暗がりから現れ、工場から漏れる明かりがなければ発見出来なかったと思われた。
 ライザの注意はそのパンドラにひきつけられていたために、工場内への注意を怠っていた。
「あぶない!」
 アールに突き飛ばされたとき、ライザはアールが裏切ったのかと思った。しかし実際にはアールは天井からライザに忍び寄る巨大なムカデのような生き物からライザを守ったのであり、自らその生き物の牙をやわらかい左腕で受け止めていた。
「例の人造生物か!」
 二匹目を撃ち殺したアレックスはアールの二の腕の肉が三〇センチはある人造生物に食いちぎられるのをはっきりと目にした。
 食いつき、アールに悲鳴を上げさせ、触覚でアールの腕にしがみつく、どんな昆虫にも似ていないその姿は、ジョンの描いた空想上の生き物と思われたそれによく似ていた。暗い色の複眼が何を移しているのかは分からない。
「アール、目を閉じて息もしないで! アレックスもよ!」
 アレックスが工場に入って扉を閉めて指示に従うと、ライザはアールが目を閉じたのを確認してポケットの護身用スプレーを人造ムカデに吹きかけた。
 怪物は声こそ上げないものの、アールから見た事もない形の口を離してのた打ち回った。
「この化け物が!」
 アレックスは相棒を賞賛し、人造ムカデが動きを失うまで銃弾を浴びせた。人造ムカデはアノマロカリスと言う名を知られる前に絶命した。
 ライザがアールに肩を貸して爆音と臭気の残るその場から移動し、アールを座らせて傷口を確認した。アールは光が傷口に染みるかのように呻いた。
「深いわ。止血しないと」
 アレックスはアールのリュックサックから止血に必要な道具を取り出しながらも、その心はジョンとゾナに向かっていた。
「あいつらも出くわしてなけりゃいいんだがな」
「ジープの中に居ればひとまず安心よ」
 ライザはアールに手早く包帯を巻きつけた。
「ごめんなさい、私、つい手が……」
 アールは痛みを飲み込むように息を呑みながら喋り、浅い息を繰り返した。
「悪いのは私よ。あなたが気にする事じゃないわ」
「そうだ。俺が押さえておくから、後で一発殴っていいぞ」
 アレックスはスネを叩かれて呻き、アールに束の間の笑いを与えた。
 アールの腕に巻かれた包帯は早くも赤く染まり始め、三人は先を急ぐ事を決めた。
 明るくなって見渡せば、通風孔の蓋が外れていたり、ドアが半開きになっていたりと、人造生物が歩き回るには好都合な環境が出来上がっていた。
「まずいな、三匹は居やがる」
 正面ゲートを間近に、人造ムカデの群れを見つけて三人の足は止まった。
「予想以上に素早く動く恐れもあるわ。他に道はないの?」
「ないな。不意打ちされなかっただけでも運がよかった」
 アレックスは地図を確認し、半ば開かれたドアに入り少し進むと医務室があるのを見つけた。その通路の奥にもドアがあるが、そこに用はない。
「私は大丈夫。気にしないで」
「気にするさ。少し引き返すことになるが、医務室に入ろう。何かあるかもしれん」
 アレックスの提案どおりに引き返して脇道に入ると、IDカードを必要としないドアがあり、それが医務室だった。
 医務室には様々な薬に医療器具が収められたキャビネットが並べられており、アレックスはツールナイフを差し込んで鍵を破壊して止血剤を拝借した。アールが腰を下ろすベッドは埃っぽかったが清潔で、ある日突然工場から人が消えてしまったかのような雰囲気を漂わせていた。
「まずは傷を見せて」
「いい、いいの」
 アールは包帯を外される事に抵抗した。
「見られて減るもんじゃないだろう。」
 ライザはアレックスの発言は適切さを欠いていると思ったが、アールが黙って抵抗を諦めたのでよしとした。
 包帯が外されると固まりかけて粘着質になった血液が糸を引いた。
「これは……何?」
 ライザは予想だにしない光景に言葉を失った。
「どうした。ひどいのか」
 アレックスもアールの傷口を覗き込み、硬直した。
「私は、ええと、私は……」
 アールは手で出血が収まり肉の盛り上がり始めた傷口を隠し、弁明の言葉を捜した。
「お前は」
 アレックスは何か言おうとしたが、通風孔から人造ムカデが飛び出してきたために遮られた。
「そんなところからも出てくるの!?」
 ライザは銃を外していたために反応出来なかった。
 アレックスが銃口を向けたが、距離が近すぎたために発砲に至る前に左腕に噛み付かれた。
「ちくしょう!」
 人造ムカデにしてみればこの人間の体は分厚い皮膚に覆われており、齧り取る事が出来なかった。つまり、アレックスは防刃性の厚手の素材で体を覆っていたために、傷を負わなかったのだ。
 それでもアレックスは銃を落とし、それはアールの足元に転がった。ライザが相棒を助けるべく護身用のスプレーを手に駆け寄ったために、アールは何の障害もなく銃を手に入れた。
 人造ムカデがスプレーのカラシ成分の前に倒れ、サバイバルナイフで絶命させられた。
「アール……お前は」
 二人は故意か偶然か、アールが自分達に銃口を向けていたために動きを止めた。
「あ、あの……」
 アールの声と体は震えていた。

 工場の裏手からかすかな銃声が聞こえてから少なからぬ時間が経過していた。ジョンも緊張を保つ事には慣れていたが、それは顕微鏡を覗いているときの事で、ゾナのように武器を携帯する場面には耐性がなく、途切れかかる緊張を維持しようと額に汗をにじませた。
「外でパンドラに出くわしたのかな。先に中に入ってた人が居るんだろうか」
 明かりを消して沈黙を保つことは困難で、ジョンは度々ゾナから注意を受けた。しかし黙っていると悪い想像ばかりが膨らみ、理性が破壊されてしまいそうだった。
 パンドラがここまで来ていたのか。人造生物が外部に漏れたのか。アールは怪我をしていないか。こちらから明かす前にアールの正体がばれて始末されているのではないか。
 オポッサムが茂みを駆け抜ければその気配に心臓がランダムに乱暴な脈を打ち、フクロウが飛び立てばその音に肺が縮み上がった。
 ジョンは冷気が体を覆っているのに汗が止まらない事に気がついた。
「博士、少しでいいから落ち着いてくれないか。こちらまで落ち着かない」
 そうは言うもののゾナも膝をゆすり、寒気と緊張をほぐそうと必死になっていた。
 工場から漏れる明かりに人間のシルエットが浮かび上がった。
「アールだ」
 二人は我先にと飛び出し、水銀灯を背に受ける三人を出迎えた。
 アールが持っていなかったはずの自動小銃を携帯し、アレックスがライザに肩を借りて負傷した右足をかばっている。ジョンは一瞬混乱したが、気にする事をやめてアールの無事を喜んだ。ゾナの方はアールの左腕に巻かれた包帯を見て眉をひそめた。
「早く閉めろ。ムカデの化け物が出てきたらかなわん」
 アレックスが座り込み指示を出し、ジョンの手によってゲートが閉じられると再び暗闇が辺りを覆い、地面に置かれたライトが草むらをまっすぐに照らした。
「途中でお化けムカデに齧られたのよ、アレックスもアールも。アールの方は早くに回復したから代わりに銃を持ってもらったの」
「アラミド繊維がずたぼろだ。あの化け物ども、作った奴も気が違ってるな」
 ジョンは自分の担当ではないと肩をすくめてLEDで手元を照らしアレックスの治療を手伝った。
「アールの怪我もそのムカデにやられたのか」
 人造アノマロカリスだよ、とジョンが訂正した。
「そうよ――そしてすぐ治ったわ」
 ジョンとゾナは言葉なくライザの出方を待ったが、次に言葉を発したのはアレックスだった。
「どうして黙ってたんだ。俺達はてっきりどこぞの国のスパイかと思ってたぞ。どうしてパンドラが人間の真似事をしてるんだ」
 月はジョンの回答を待ちわびるかのように五人を照らし出した。
 ジョンは誰と目を合わせる事もなくこれまでの経緯を説明し、工場内でアールの検査を行う際に事実を明かすつもりだったと弁解した。
「アールは他のパンドラとは違う。彼女はパンドラだけど、彼女のアイデンティティは僕らの側にあると思うんだ」
「難しい言い方は出来ないが、私もアールは仲間だと思う。アールとあれは、似て非なるものだと断言出来る」
 ライザとアレックスは黙って聞いていた。
 止血が終わるとアレックスが立ち上がり、アールから銃を受け取った。
「確かに、あんな化け物とアールは目つきからして違うな」
「私も助けられたしね。他のパンドラならそんな事はしなかったと思うわ」
「別にアールをどうこうしようなんて思っちゃいない。博士、顔を上げろよ。アールも、握手だ」
 アールは喜んでアレックスと握手を交わし、ライザとは軽い抱擁を交わした。
「でもどうしてアールを検査する必要があるの? 私達はもうアールの安全性を疑っていないわ」
 ジョンは今度は相手の目を見て答えた。
「カタログにはアール、パンドラR型が存在しないんだ。つまり何らかの理由で欠番になったって言う事だよ。もしも欠番になった理由がQ型と同じなら、Q型をどうにか、この国のパンドラを無力化する手立てが見つかるかも知れないんだ」
 ゾナが大きく形のよい眉を動かした。
「夢のある話だ。先を急いでもらえると有難いのだが、大佐の足は大丈夫かな?」
「もう十分だ」
 アレックスはいつの間にか取り出したタバコをふかし、満足げに微笑んだ。


   九 管制室
 強い風が吹き、アールは髪を押さえて風に耐えた。
「中央管制室に行こう。あそこに行けばアレックス達が捜してる書類が見つかるだろうし、人造生物を始末する毒ガスを工場中に散布できる。」
「おいおい、毒ガスって、俺達は防護マスクまでは持ってないぜ」
 ジョンは笑った。
「大丈夫、人間には無害だよ。それに中央管制室自体には入ってこないように作られてるから、アールも安全だ」
 ジョンがチェッカーにカードを滑らせてゲートを開き、全員が中に入ると内側からの操作でゲートを閉じ、五人は風から解放されて温かさを感じた。
「こっちだ、ついてきて……とと、じゃあ、僕が道を教えるから先にどうぞ」
 ジョンは先陣を切ろうとしたが、奥の通路に通じるドアを開けてすぐのところに人造生物の死骸を見つけ、先頭を気のはやるゾナに譲った。その二人の後ろをライザが続き、最後に緊張感に欠けると思われるアレックスとアールが続いた。
 かつて工場に勤めていたジョンは全ての間取りを記憶しており、地図を必要としなかった。後から続いて地図を確認するアレックスはその記憶力に感心したが、アールがしきりにジョンを褒め称えるので、自分から口に出して褒める事はしなかった。ゾナとライザは人造生物が姿を現すたびにスプレーで撃退する役に回った。
 管制室は工場の中枢にあり、セキュリティーレベルの異なるいくつかの区画をジョンのIDカードで通り抜けなければ近付く事も出来なかった。ジョンはこのような権限を与えられたIDカードは十枚とないと自慢したが、アレックス達は相手にしなかった。
 最高のセキュリティを施された二重のドアがジョン自慢のIDカードによって開かれると、管制室から空気があふれ出た。
「与圧されてるのか」
「そう。ここは聖域なんだ」
 聖域は商社のオフィスを思わせる雰囲気だった。十人ほどが広々と作業出来る程度の広さで、中央に簡素なステンレス製の机がいくつか固められ、その上には技術書と工場内の情報に関する書類が本立てを使って整理され、それぞれの席の人間の利き腕に合わせた位置に電話が置かれている。アレックスが適当な引き出しを引くと、短くなった鉛筆と崩れた消しゴムが転がってきた。
 壁際には壁を隠すようにキャビネットや本棚が並べられ、外部の人間には知られてはいけない情報を収めたノートや光ディスクが収められていた。四方の一面だけ本棚が置かれていない面があり、そこには工場内を一望出来る壁一面のモニターとコンピューターが備え付けられていた。その様子は子供向けアニメの秘密基地さながらで、そこだけ見ればここで労働者達が働いていた事など夢のようだった。
「休んでていいよ、僕がやる」
 ジョンは適当な椅子を取り上げ、水を得た魚のようにコンピューターに向かった。アールがついてきた事にも気付かず、相手にされないと分かったアールは一人で室内をうろつき始めた。
 モニターに工場内のあちこちの様子が映し出される。自販機がたくさん設置されている談話室や、各部署をつなぐ通路に人造生物の姿を認める事が出来た。
「カメラは工場中に仕掛けられてるの?」
「そう。でも同時にモニター出来るのは八ヶ所ぐらいだね」
 画面の半分がさらに八分割され、人造生物の姿以外に何も認められない工場の様子を明らかにする。ジョンはそちらには興味がないらしく、画面のもう半分を覆うインターフェースに集中した。
「それにしても書類の量も凄いわね。うんざりしそうだわ」
「そりゃすごい。俺はもううんざりしてる」
 ライザとアレックスは書類の山を前にし、目当ての品を探し当てる方法を模索した。既に緊張は解かれていた。
 ゾナだけは緊張を解かず、いつ異常が映し出されるかもしれないと、モニターが映し出す工場の様子に見入っていた。
「よし、これでいい!」
 ジョンが高い声を上げると共に、ゾナが望んでいた変化が訪れた。カメラは全て工場内が白い煙で満たされていく様子を捉え、人造生物がどこかに逃げていくのを映し続けた。すぐに画面は一面の乳白色となり何も見えなくなった。
「ガスは三〇分で消えるから、消えるまでに書類を捜しておこうよ。みんなで探せばきっとすぐ見つかるさ」
 ジョンはアールの賞賛を浴びようとアールに目を走らせ、アールの状態に息を呑んだ。三人がそれに続き、銃を構える。
「動くんじゃねえ! 動いたらこいつを殺すぜ」
 アールはユージーンにつかまり、こめかみに銃をあてがわれていた。
「何者だ!」
 気丈に尋ねたゾナは一歩進み出て、足元に発砲されて立ち止まった。
「動くんじゃねえ。アレックスは知ってるだろう、俺の事ぐらいは。だから隠してもしょうがねえ。俺はユージーン大佐だ。ちょいとヤボ用で邪魔させてもらってるぜ」
 アールは顔だけを動かして頭二つ分の差があるユージーンの顔を見上げようとした。
「私はアール。始めまして。腕が痛いんですけど、離してもらえませんか?」
「こりゃご丁寧にどうも。でもあっち向いてないと頭が吹っ飛ぶぜお譲ちゃん」
「アールです。おじょーちゃんじゃありません」
 力任せに前を向かされるとアールは喉の奥でうめいた。
「わざわざ電源を落として待ち伏せるなんて、よっぽど暇だったんだね」
 ユージーンに睨まれるとジョンは口をつぐんだ。
「お前がドーソン教授か? 一緒に来てパンドラのサンプルって奴を見せてもらおうか。こんな紙切れよりも価値はあるだろうよ」
「僕はジョンだし、教授じゃない。博士だ」
 ジョンは博士を強調した。
 アレックスとライザはユージーンが投げ捨てたアタッシェケースに注目し、そこに自分達の求める情報があるであろうと目星をつけた。
「あなたの部下はパンドラにやられて、そのときにショートして停電したのね。外で痕跡を見つけたわ」
「そういう事だろうな。うすうす感づいちゃいたぜ。そいつ以外にも博士のご立派な発明のおかげで俺以外は全滅だ」

「ならばそんな無駄な事をしてどうなる! 投降しろ!」
 ゾナが足を出そうとすると再び威嚇射撃が為され、ジョンを飛び上がらせた。
 睨みあう事数分、アレックスがイタズラを思いついた少年のように歯をむき出した。
「おいユージーン。その女もパンドラだぞ。食われてもいいのか」
 ユージーンは明らかに動揺してアールをまじまじと眺めた。
 その隙に視線を外されて自由になったゾナが飛び出し、ユージーンはゾナに向けて発砲しようとしたもののアールに体をゆすられて照準が定まらず、アールを振りほどき、尚も邪魔をしようとするアールを無視して発砲した。銃弾はアールの左手を貫通して机に着弾し、ユージーンはゾナに取り押さえられた。
「アール! この、よくもアールを!」
 悲鳴をこらえるアールに駆け寄って抱き寄せ、ジョンは子を守る猛獣のような目をユージーンに向けた。
「騙しやがったな」
「騙しちゃいない。それに騙したとしても、騙されたお前が悪いだろう」
 アレックスは司令官よろしくライザとゾナに指示を出してユージーンを椅子に拘束した。
「どんな具合なんだ、見せて」
「大丈夫。痛いけど、すぐ治るから」
 ユージーンは暴れていたが、アールの傷に包帯を巻いて済ませる光景に唖然として暴れる事をやめた。
「おいおい、それっぽっちか? 止血剤ぐらい……まさかそいつ」
 アレックスが笑った。
「だから言ったろう。パンドラだ」
「あんまり刺激すると食べられちゃうわよ」
 ゾナはライザの冗談に顔をしかめたが、ユージーンの顔色を見る限り有効な冗談のようだった。
「おい、そいつを俺に近づけるな! 冗談じゃねえぞ!
「アールは人を傷つけたりしないよ」
「嘘つけ! そいつを殺せ! 何ボサっとしてんだ!」
 アールが顔をしかめるとゾナは不愉快になり、ユージーンを強めに小突いた。
「こいつをどうするつもりだ、大佐。連行して本部に引き渡すのか?」
「そうなるわね。枯れは共和党派。私達は民主党派。仲良くするのは難しいもの」
 ジョンが非難めいた声を上げた。
「そいつを連れて行くなんて、僕にはぞっとしない冗談にしか聞こえないよ」
「パンドラは平気でも俺は怖いのか? 博士の考える事は分からねえや」
 ユージーンは笑って言ったが、アールに対する恐怖は拭えていない様子だった。
「国境に着くまでの信望だ。それよりジョン、何かやる事があったんじゃないのか。アールを調べてどうこうってあれだ。ここじゃ出来ないのか?」
「ああ……ここじゃなくて、検査室に行かないと。だから今はまだ無理だよ」
 非力な学者にまで睨みが利かなくなり、ユージーンの理性は敗北を認めた。
「なあ、水をくれよ。昨日から閉じ込められててまともに飲み食いしてねえんだ」
 一人ずつ顔色を伺うと、一人ずつ拒否の仕種を取った。
「残念だけど銃から手を離せないのよ」
「これも規則ってやつだ」
「貴様にくれてやる水など無い」
「僕は持ってないよ」
 残されたアールは自由な片手で不器用にリュックサックを下ろし、中身を探った。
「お前の水は要らねえ、来るな!」
 ユージーンが拒絶してもアールはペットボトルとサンドイッチを取り出してユージーンに歩み寄った。
「凄く美味しいの、これ。食べるでしょう。私の分はまだあるから、食べて」
「寄るな化け物!」
 アールが一瞬足を止めた。
「化け物じゃありません。アールです」
 その言葉にはアールには珍しい強い力が込められており、ユージーンも黙らざるを得なかった。
「食べられる? 水はこうやって蓋を開けて飲んで、サンドイッチははがさないで食べるの」
「当たり前じゃねえか」
 四人はw来をこらえるのに必死だったが、アールはユージーンの知識の深さに驚き、ユージーンまで失笑させた。
「このままじゃ食えねえよ」
「食べさせてもらえばいいじゃない」
 ライザは冷たく言い放ったが、既に銃口を下げていた。
「初めてだけど、きっと上手にやる。だから私に任せて」
 アールは初めてに挑戦する子供に特有な、本人は期待に満ち溢れながら、旗から見れば危険な光を目にたたえて微笑んだ。
「いや、要らねえよ」
「大丈夫」
「どう見ても大丈夫じゃねえだろ」
「大丈夫だから」
 捕虜に拒否権は認められなかった。
 幸いにもアールがペットボトルをひっくり返して水まみれになった事によってユージーンの拘束は緩められたが、ユージーンは失ったものが大きいような気がした。

 人造生物を一掃する毒ガス・シェーカーの白い霧が晴れると、ジョンは大手を振って古巣を闊歩出来る事となった。
「食べた分は働いてもらうからな」
 ジョンは強がって両手を後ろ手に縛られるユージーンに先頭を歩かせたが、そうさせるだけの凄みは無かった。ユージーンが黙って従っているのは、むしろゾナの厳しい視線によってで、アレックスとライザを笑わせた。
「アール、手の他に痛むところは無いね?」
 アールは人造ムカデの死骸を観察するのをやめて無事を伝えた。
「俺より化け物の心配かよ」
 ユージーンはアールを化け物と呼んだが、それはそう思っての事と言うよりも、アールを指すのに適当な単語を見出せないために古い言葉を使い続けている節があった。
「アールは他のパンドラとは違う。シェーカーを浴びてもしもの事があったら困るから待ってただけだよ」
 ユージーンが立ち止まるとゾナが一喝した。
「おい、パンドラもさっきの毒ガスで殺せるんなら、どうしてそいつをこの辺一帯にばら撒かねえんだ。人畜無害なんだろ?」
 ゾナも思わずジョンの答えを求め、ユージーンに目を向けるのも忘れてジョンを注視した。
「それを調べるんだよ。パンドラは色んな遺伝パターンがあるから、中にはシェーカーに耐性を持ってるやつが出てくるんだ。Qとアールは連番でね。ひょっとすると同じ性質を持ってるかもしれないから、アールに耐性がある事が分かればQに耐性がある事も推測出来る。効果が無いのにガスを使っても無駄だろう? まあ、五分五分にちょっと上乗せしたぐらいの確率だけどね」
 博士もそういう事を考えていたのか、とアレックスが感心した。
「私とQは似ているのね」
 アールの声に含まれる感情は特殊で、人間には聞こえない超音波をコウモリが聞き取れるように、人間以外の何かには感じ取れるのではないかとジョンには思えた。
「まあ、僕達の間隔で言えば、兄弟姉妹ぐらいかな」
「何を言うんだ、博士。あれとアールは全くの別物だ。あれを見た私なら分かる」
 ゾナは唯一の接触者として懸命に否定し、アールの肩を抱いた。
「そうか、どこかで見た顔だと思ったが、あんた、上宮大将のゾナだな。生きてやがったのか。化け物に亡国の大将に、民主党の裏側は賑やかな事だな」
 上宮大将。
 その称号を呼ばれるのは久しく、ゾナはアールに誇らしげにその由来を語った。
「王宮は王室の居住空間の上宮と、議事堂のある下宮に分かれていてな。私は陛下のお傍に使える上宮の担当だったのだ」
「ゾナは偉いのね」
 つらい思いでもアールの笑顔の前では消えていくようだった。
「アールは観賞用の型だからね。男女隔たり無く、万人に愛されるように出来てるんだよ」
 ジョンは冷静を装って語ったが、嫉妬の色を隠す事は出来ず、ライザに笑われた。
 動くものが他にない静寂の中で、六人がばらばらの足取りで時を刻みながらいくつかの区画を進んだ。
 途中、厚いガラス越しに開放された冷凍カプセルの覗ける通路に出ると、足取りが止まった。
「寝ているの?」
 アールが聞いた。
「死んでるのさ。こいつは最後に俺に糞野郎って叫んで、死んだのさ」
 冷凍カプセルの前に横たわる兵士は全身を捕食者たる人造ムカデに齧られ、使い古したデニム生地のようになっていた。人造ムカデの死骸もその周囲に転がっている。
 ユージーンは獣がうなるような声で口の中で祈りを捧げた。アレックスとライザがそれに続き、アールが仕種を真似た。
「上の命令には黙って従うもんじゃねえな」
「ムカデを外に出すようにも命令されてたのか」
「ああ。俺はその資料の回収。こいつらは化け物の解放を命令されてたんだ」
 ジョンの顔が青くなった。
「エニグマはどうしたんだまさかあれも解凍したのか」
「それは知らねぇ。ここの化け物の名前までは聞いてねえよ」
「知らないじゃ済まない! 地下、Bの一四区だよ。Bの一四区に入ったのかい」
 ジョンが初めて見せる剣幕に、ユージーンのみならず他の四人までも驚きを隠せないでいた。
「博士、エニグマとは何なのだ? このムカデの仲間か?」
 ゾナに制されるとジョンは落ち着きを取り戻した。
「エニグマは僕がパンドラの担当から外された後に作った、捕食者なんだ。もしも研究中、あるいは生産中に今みたいにパンドラに歯止めが利かなくなった場合、そのパンドラを捕食して駆除する生き物として作ったんだ」
「わ、私、食べられるの?」
 ジョンはアールに構う余裕などないようだった。
「僕達は七体のエニグマを作った。優秀な生き物さ。トンボをベースに作ってあってね、グリズリーぐらい大きくて、こんな防護ガラスぐらい簡単に突き破ってしまう。そして攻撃性が強すぎた。僕なんか、危うく頭を潰されるところだったよ。あれは人類の手に余るものだ。だから僕が開発を中止させて、廃棄したんだ。七体全部ね。といっても会社は廃棄を望まなかったから、永久冷凍されたんだけどね」
 恐怖を体験した者のみが見せる瞳の色に、ゾナは終始同感を示した。
「そんな物騒なもんは知らなかったし、説明も受けてねえ。相当な極秘事項だったらしいな」
「出来れば僕も死ぬまで忘れていたかったよ」
 ジョンは大きく息を吸い込んでいつものやや間の抜けた表情を取り戻した。
「行こう、僕が心配しすぎた。みんなも忘れてよ」
 再び歩き出したときには誰も何も喋らなかった。
 アールはこの場所を見た事があるような気がしてならなかった。それがいつの記憶化たどっている内にバランスを崩し、ゾナに支えられた。
「大丈夫か?」
 その拍子に思い出された。
 大丈夫? と尋ねてくる青い瞳。彼女と二人きりだった。アールが何も答えずに居ると、彼女は退屈そうにため息をついた。
「あんたも喋れないのねぇ。つまんない」
 彼女の胸には刻まれていた。自分のRと同じように、Qの文字が。
「ここにアールの基礎情報も検査用の装置もある。これが王国を救う鍵になるかな?」
 ジョンの言葉にアールは現実に引き戻された。


   一〇 検査
 そこはかつてアールがQと共に染色体の検査を受けた空間に連なる一室で、壁に備え付けられた書類棚の数々は事務室を、部屋の半分以上を占めて鎮座する検査用の機械の数々は医療機関を、入り口のすぐ傍にあるコンピューターは研究機関を思わせた。
「うん、ちゃんと動く」
 ジョンはコンピューターに命令を吹き込んで眠りから目覚めさせると、IDカードを使って書類棚の電子キーを解除した。
「ここのQのタグがついてるのと、Rのタグがついてるのを全部持って帰ろう。誰でもいいから持ってて。アールはこっちに来て。大丈夫、痛いのはすぐ終わるよ」
 指示を受けてライザが動き、辞典のような大きさがあるが見た目よりも軽いブックレット形のディスクホルダーを、Qにつき三冊、Rにつき三冊アレックスに持たせた。その間にアールはジョンが指した計器の上に腰を下ろし、右袖をまくった。
「一人で持てって、頼られすぎだ。ユージーン、お前も持てよ。これもサンドイッチの労働分だ」
 ユージーンが拒絶するよりも早くゾナが非難した。
「この男は信用出来ない。私が持とう」
 ジョンは部屋を一巡りして注射器と採血用の試験管を拾い集めて首をかしげた。
「消毒用のアルコールが無いな。まあ、なくてもいいか」
「アルコールならあるぜ」
 ユージーンが顎で胸ポケットを示すと、アレックスがウイスキーの携帯瓶を取り出した。
「シングルモルトぉ? 似合わないな、ユージーン。俺が飲んでやる」
「任務中よ、アレックス大佐」
 ライザは大佐を強調して釘を刺した。
「それは口をつけてるのかい?」
「飲まないウィスキーを持ち歩いてどうすんだよ」
 ジョンはウィスキーを受け取ると、アールとウィスキーを交互に見て最後にユージーンを見た。
「てめえ、嫌なら使うな! 俺が自分で飲む!」
「つ、使うよ」
 アールは注射器にこそ慣れていたが、酒を腕に塗られた経験は無く、脱脂綿にウィスキーが含まれるとその匂いをかいで顔を背けた。
「変な臭い。美味しくないのね」
「ガキにはまだ早いだけだ」
「アールも大人になれば分かるぞ」
「アールに変なことを教えないでよ」
「変じゃない。酒は神が与えたもうた幸福への架け橋だ」
 ゾナが荷物の梱包に必要な紐なり袋なりを探しつつ、男達の談笑を横目に見た。
「少し痛むよ」
 ジョンがアールから採血した。試験管三本分の血液は人間のそれと変わらない色をしていた。
 ここからは時間との勝負だ、とジョンは早足で室内を駆け巡って丸みを帯びた洗濯機のような機械にアールの血液をセットした。
「そんなに急がなくても、時間はあるぞ博士」
「そうはいかないよ。パンドラの血液は固まりやすいんだ」
 ユージーンを除いて実際にその目で見た事があり、ああ、と納得した。ユージーンだけはつまらなそうにアレックスの手の中で揺れるウィスキーを見やっていた。
 機械が低いモーター音を奏で、次いで古いSFに出てくるロボットが発するような電子言語を響かせた。それは分析中の証しで、ジョンはその間にあちこちの引き出しを開けて空のMOを見つけ出し、コンピューターに挿入した。
 ややあってモーター音が静まると、ピープ音が終わりを告げた。
 ゾナも紐を使って荷物を梱包し終え、満足げに眺めた。
 ジョンは機械から血液を取り出すと、そのまま別の機会に移して同じ手順を踏んだ。
「そうだ、そこに測定器があるからアールの身長と体重も調べておいてよ。せっかくだしね」
 ライザがアールを部屋の片隅にある測定器の元に誘導した。注射器程度の傷であればもう止血しているようだった。
「スリーサイズも調べておく?」
「それは要らないよ。どさくさに紛れて何を言うのさ」
 ライザは満足そうに笑った。
 測定器は十分にアールの好奇心を刺激し、アールは頭を動かして慎重の測定を拒み、振り返って拒み、つま先立ちをして拒んだ。
「アール、こうするのよ」
 ライザはまず自分が手本を示して一七〇センチの身長を測ってみせ、体重の表示は即座に消去した。
「何もしないをすればいいのね」
「うまい表現ね。それでいいのよ」
 アールの身長は一五九センチで、体重は四五キロだった。しかしアールは靴を履いたままであった。
「あら、靴ぐらい脱がせたほうがよかったかしら」
「そんなに正確じゃなくていいんだ。無くても困らないデータだし」
 血液の分析結果は秒単位で更新されてコンピューターの画面に四つの色で表示され、ジョンを釘付けにした。ゾナも傍らでそれを覗き込んでいたが、それぞれの色と単語が何を意味するのかまるで分からなかった。
「これが私の血?」
 アールは画面上を流れる情報の羅列にあわせて目を躍らせた。
「アールの血液のデータだよ。血糖値やコレステロールに始まって、赤血球の量と活性さとかね。後は全部コンピューターが勝手にやってくれるんだ。アールにはこんなのより……そう、こう言うのの方が面白いんじゃないかな」
 画面が切り替わり、マウスだけで遊ぶ簡単なゲームが登場した。
 ジョンはアールに操作方法を説明してやり、席を譲った。アールが熱中するのにさほど時間はかからなかった。ジョンはそのまま書類棚の電子キーを解除し、ブックレットを取り出し、ページをめくり始めた。
 はたから見れば流し読んでいるに過ぎなかったが、ジョンの目は確実に文章を捉え、情報をつかみ、必要な推論をはじき出していた。
「やっぱりそうだ、アールは超効率型として開発されて、利益が薄いと判断されて欠番にされてるんだ」
 一同はゲームに熱中するアールとブックレットに熱中するジョンを交互に見た。
「家電製品みたいな表現だな」
「コンセプトは同じだよ。パンドラは代謝が早い。だからたくさんのカロリーを摂取しなきゃいけない。そこで会社はパンドラ用のゼリー、消耗品を売りつける。パンドラ単体の売り上げより、消耗品の売り上げのほうが大きいから、アールみたいに人間と同じ物を食べて済ませられる超効率型は会社の利益に反するんだ」
「それで欠番か。まんま家電だな、化け物。ビールぐらい冷やせるか?」
 アールはコンピューターの作った新しいパズルを解くのに忙しく、返事をしなかった。
「しかしアールを物のように扱うとは、気持ちのいい話ではないな」
 ゾナは釈然としなかったが、これはパンドラ全体の話だからとライザになだめられた。
「ジョン。壊れた」
 アールが突然画面の切り替わったコンピューターを指差した。それは作業の終了を示すもので、アールが制限時間内にパズルを解読出来なかったために与えられたペナルティではなかった。
 ジョンはアールに席を譲ってもらい、高い音を響かせながらマウスとキーボードを叩き続けた。
 画面が暗くなり、円グラフと数本の棒グラフが現れ、不規則に上下に変動した。
「これは……」
「これは」
 アールがジョンの小難しい表情を真似て言ったが、ジョンに相手をしてもらう事は出来なかった。
「ゾナ、悪いけどQのディスクが欲しいんだ。もらえるかな」
 ゾナは完璧な梱包を崩す事に抵抗を示したが、必要性を感じてやむを得ず崩し、ジョンの望む三冊のディスクホルダーを手渡した。ジョンはその一つ一つを開き、目当ての情報が収められているディスクを探し、慣れた手つきでコンピューターに挿入した。
「こっちは要らないの?」
 アールが残されたディスクを取って光にすかしたりシャッターを開こうとし、ライザにたしなめられた。
 コンピューターはディスクから情報を読み取り、アールから検出されたデータと比較を始めた。その作業工程が理解できるのはジョンだけで、他の五人は何とはなしに画面を眺めていた。
「ドーソン教授に会いたいな……会えるかな?」
 ジョンが尋ねると、ライザは難しい顔をした。
「難しいと思うわ。博士も知っているとおり、教授の体調が優れないもの」
 ジョンは夢に潜り込むように恩師の姿を思い出した。
 老齢を感じさせない精力的な行動。後頭部にのみ残った白い髪を振り回して顕微鏡にかじりつく姿。ノリの利いた白衣が一人歩きしているように見える猫背。それはジョンがまだ学生だった頃の記憶で、大学院を卒業してすぐに教授と共に会社に雇われてパンドラの研究を始めた頃もそうであった。
 パンドラの安全性をめぐって口論したことが思い出された。絶対の安全性を主張する教授と、アールのような存在が誕生しうる可能性と、Q型のように繁殖し人類に牙を剥く存在が誕生しうる可能性を主張するジョンの対立は深まり、ジョンはパンドラの開発チームから外された。
 そして今回の事件が起こって間もなく、彼は心筋梗塞を起こして倒れた。再開した老教授は頭脳こそ衰えていなかったものの、ベッドに横たわり、全身を樹海の植物のような管に覆われ、ベッドの周りには様々な臓器の代わりを果たす医療機器が並んでいた。
 優れた頭脳を持つために飛び級を重ね幼くして大学に入学し、それ以来ずっと世話になっていたジョンにとって、もう一人の父のような存在だった。
「体調がどうであれ、会わなきゃいけないと思う。だってこれは僕と教授の責任でもあるから、きちんと向き合わなきゃ駄目だ」
 ジョンは自分に聞かせるように言った。
 アールはそんなジョンから目を離せなくなり、息をするのが難しくなったような気がした。無理やり他の人間に視線を移してもすぐにジョンが気になり、呼吸の乱れも他の人間を見ていては起こらなかった。アールにはただ単純に、ジョンが特別な存在なのだと思えた。
「分かった、俺の方から掛け合ってみよう。その代わり今度一杯おごれよな」
 ジョンはアレックスに感謝を示し、いつともない約束を交わした。
「じゃあ俺も手伝うぜ。協力者っつう事で自由にしてくれねえか?」
「寝言は寝て言え」
 ゾナもユージーンも本気の様子で言い合い、ライザを笑わせた。
「博士の用事も済んだなら、急いで戻りましょうか」
 ライザの号令で荷物がまとめられた。
 ジョンは部屋から出る前にアールを引きとめ、苦々しく笑った。
「僕は困るよ。君と僕が出会えたのはこの偶然のおかげなのに、この偶然がQ型も生んだんだ。喜んで言いのかな、喜んだらいけないのかな」
「私は嬉しい。ジョンに会えて、凄く嬉しい」
 アールが熱っぽく言うと、ジョンもうなづいた。
「僕もだ。行こうか」
 それ以上の言葉は要らなかった。

 工場を出ると東の空が紫色に明らみ始めていた。そこから浮かび上がる木立や丘陵のシルエットは童話の世界から切り抜かれてきたもののようで、見る者にパンドラの脅威を忘れさせた。
「日の昇らないうちに城内の見回りを始めると、もっと高い位置から見下ろすことが出来てな。それが美しかったんだ」
 ゾナは思い出を確かめるように一語一語をつむぎ上げた。
「私はあっちのトラックを運転するわ。アレックスはみんなをお願い」
「てめぇの車ぐらいはてめぇで運転するさ。だからこれ、外しちゃくれねえか」
 ユージーンの主張は聞き入れられなかった。
 全員が車に乗り込んで発車すると、ジョンとゾナは名残惜しそうに小さくなっていく工場を見送った。
「もう戻ってこないだろうな」
「ああ……」
 二人はそれぞれに思い出の残る土地を深く記憶に刻み込んだ。


   一一 襲撃
 国境警備隊と合流してもユージーンの処分について判断は下されず、ひとまずアレックスにゆだねられ、ホテルまで連れて行く事となった。
 ホテルに戻るとジョンやアールにも衛生電話の存在が明らかにされた。
「軍隊って言うのはスパイ映画みたいなものを本当に持ってるんだね」
「これで電話をするの?」
 二人は組み立てられる前後を舐めるように眺め、液晶画面に人の姿が映ると慌てて後ろに下がった。ゾナはその存在を予想していたらしく、別段に驚いた様子は見せなかった。
 画面に顔を出したのはミスターキューブだった。ミスターキューブはユージーンの存在にハイパーキューブ状態をちらつかせた。
「ユージーン大佐は極東戦線で死亡したと伝えられているが、どう言う事だね」
「俺が極東戦線で戦死! ふざけてやがる。もっとマシな嘘はなかったのか」
 ライザの口から詳細な説明を受け取ると、ミスターキューブはハイパーキューブ状態を解除した。
「任務は成功です」
「ついでに俺の任務は失敗だったって上に伝えてもらえねえですかね」
 ミスターキューブはユージーンに対しても重々しく頷いた。
「共和党と会合を設けよう。次の作戦が決まるまで時間はかからない。そのまま待機せよ」
「ボス、話が」
 アレックスが進んで話を持ち出す事も珍しかったが、ミスターキューブの注意を引いたのはアールの姿だった。
「始めまして、アールです」
「実はね、ボス。博士がこの子を連れてドーソン教授に会いたいって言うんですよ」
 アレックスはジョンとアールの肩を抱き、いつに無く丁寧な口調で頼み込んだ。
「無理だ。非常時でなければ特別の面会は認められない」
 一考の余地も無かった。
「実はこの女、パンドラでしてね」
 ミスターキューブの四角の中で、目だけが丸く見開かれた。
「Q型を捕獲したのか」
「いや、こいつはQ型とは違います。まあこう言うわけですからね、教授の判断が必要な非常時だと思うんですよ」
 一考にとどまらず、時間をかけて長考された。
「彼女は本物のパンドラです。僕がこの目で確かめて、データも取りました。この問題を平和的に解決する鍵になるはずなんです」
 ジョンの言葉がミスターキューブに腹を決めさせた。
「分かった。パンドラ護送用の護送車を派遣しよう。そのまま待機しろ」
「どーも。だからボスについていく気になりますよ」
 アールに護送車など誤解もいいところだ、とジョンは訂正を求めようとしたが、既にジョンに発言権は認められていなかった。
「ユージーン大佐はアレックス大佐の指揮下に入れ。君が忠実である限り我々も君の期待に応えるつもりだ」
 通話が打ち切られた。
「みんな色々思うところはあるでしょうけど、まずは食事にしましょうか」
 指し当たってライザの提案に反対する者は居なかった。
 一同の労をねぎらってか、運ばれる料理は量も種類も多い地元の名物ばかりで、アールが目を輝かせて一品一品の名を尋ねても全てを答えられる者は無く、六人ともその味に没頭した。作法にうるさいゾナも自分の手元に気を配ることに精一杯で、ユージーンやアレックスがアールの悪い見本となっている事までには気が回らなかった。
「アール、駄目だよ損な食べ方、女の子なんだから」
 そういうジョンの手つきも上品とは言えず、説得力に欠けた。
「ほら、ゾナだよ。ゾナみたいにするんだ」
「ジョンもするの?」
 予想通りの言葉であったが、反論が用意できず、ジョンは破れかぶれに頷いて不器用な手つきでゾナの真似を始めた。
「ジョンがするなら私もそうするわ」
 アールも従ったが、ゾナと向かい合う席に座っていたため、ゾナが右手を上げれば左手を挙げ、ゾナが左手を動かせば右手を動かした。やがて食器の配置がおかしいことに気がつくと、自分の食器を並び替えてゾナと鏡を合わせたような状態にして真似た。
 その様子に気付いたのはライザで、食事が終わった後にジョンに尋ねた。
「アールは左利きなの?」
「それは考えた事も無かったな……」
「そもそもパンドラにも利き腕があるのか」
「それはあると思うよ。犬や猫、イルカにだって利き腕があるらしいしね」
 食後の雑談にはちょうどよいと判断し、ジョンはワインで唇を湿らせて舌を滑らかにした。
「それとパンドラの血液型はみんなB型なんだ。もちろん他の血液型にも出来たけど、最初にそういう風に作ってね。変更の必要が無かったから、それっきりそのままなんだ。どうしてB型が選ばれたのかは僕にも分からないよ」
「私はアール、Bがたじゃないの」
 笑うことも食後のいい運動となった。
 全員が思い思いの場所で軽い睡眠を取った後、護送車到着の一報が届いた。

 それは人気の宅配ピザのロゴが大きくペイントされたトラックで、傍目にはパンドラを護送する護送車に見る事など出来なかった。運転を担当する者もピザ屋の制服をまとってアレックス達の同業者である事を巧みに隠しており、コンテナの中にはピザの代わりに四人の兵士が戦線に赴くときと同じ装備を帯びていた。
「シラー軍曹であります! 大佐、このたびはパンドラの捕獲ご成功、おめでとうございます! 自分もそのご武運にあやかりたいものであります!」
 若い軍曹はピザ屋の制服に似つかわしくない熱っぽさで敬礼をした。彼はゾナを救出する際にアレックスの部隊に所属し、パンドラの捕獲を試みたが失敗した過去を持っていたので、アレックスもその態度に無理は無いと思った。
「まあ色々あってな。こいつは大人しいし言えば分かる奴だから、そう緊張するな、軍曹」
 アールはライザとユージーンにはさまれ、コンテナに潜む四人の兵士に銃口を向けられていた。ジョンとゾナはそれが気に入らず、アールには心配そうな視線を送り、軍人達には敵意を帯びた視線を送った。
「パンドラは危険であります。自分はそれを目にしました」
 軍曹の決意は固く、警戒が解かれる事は無かった。
「見られるとまずい。早くやるか」
 アールはトラックの中に入れられると、兵士の一人に床に押し倒された。
「何をしている!」
 ゾナが叫んで前に出ると、軍曹は肩をすくめた。
「拘束するのです」
 アールがうつぶせにされ、手を後ろ手に組まされ、手錠をかけられる。それはユージーンが受けた拘束を思い出させた。
「いたぁいぃ……」
 アールは弱弱しくうめいたが、その声は兵士には届かなかった。
「乱暴はやめてくれ」
 ジョンは言ったが、注目されると口ごもった。
「つまり、その、乱暴にすると凶暴化するかも知れない」
 こう言うしかないんだよ。
 ゾナの厳しい目には目で応えた。
「その点も大丈夫ですよ、博士。自分の経験からして、パンドラは口を使って攻撃してきます。手と口をふさいでしまえば、何も出来ないのです」
 軍曹の誇らしげな説明と共に、アールの口には猿轡が咬まされた。
「やりすぎじゃないかしら」
 苦痛をアールの表情に見て取ると、ライザは語気を強めて言った。
 軍曹は異教の地で理解を得られない牧師のような顔をした。
「あれは危険なモンスターであります、少佐。二重、いや三重、いや四重に安全を確保して、初めて背中を向けられるのです」
 身動きの取れなくなったアールをさらにベルトで縛り、彼らは満足したようだった。
「それでは参りましょう」
 誰にもそれを咎める権利は無く、一同は用意されたバンに乗り込み、コンテナが閉められてアールの姿が見えなくなるまで見守った。
「四人がかりとは、民主党方は用心深いもんだ」
「やり過ぎだ。アールを化け物と同列視するなど、どうかしているぞ」
「アールが危険なパンドラだったら、とっくに僕達は襲われてるじゃないか……大体Qから生まれたパンドラは犬の外見してるんだ……」
「せめて誰かしら向こうに同乗させてもらうべきだったわね」
 アレックスは批判を耐え忍ぶように助手席に陣取ったまま目を閉じた。運転はライザが担当する手はずになっている。
 トラックが走り出すともはやどんな議論も意味が無くなり、ライザもトラックの後を追った。

 苦しい。
 自由を奪われたまま硬く冷たい鉄の床に投げ出され、アールは言葉にならない声を上げた。うつ伏せがつらいので姿勢を変えようとすれば、背中や尻を蹴られて戻されてしまい、しまいには後頭部を銃口で圧迫された。
 無性に悲しくなってくると、オレンジの明かりに照らされた車内の色合いが、灯りのせいなのか充血した自分の目のせいなのか分からなくなった。
「しかし見た目は普通の女の子ですね。聞いてたのは犬みたいなやつだから、驚きましたよ」
「服を着てるからそう見えるだけだ。こいつもいつ本性を剥き出すか分かったものじゃない。何十匹も襲ってくるんだ、地獄だよ」
 四人の中でゾナの救出に当たったのは一人だけで、他の三人はパンドラ自体をよく知らない様子だった。
「でも結構美人じゃないか。もうちょっと背が伸びたら好みだな」
「中身は化け物だ。任務中だ、余計なことを考えるな」
 しかし三人は誰も見ていないから大丈夫だと話を続けた。
「おとなしそうな顔してるし、解いても大丈夫じゃないですかね?」
「それに見てて痛々しい。まるでこっちが人質を取った犯罪者じゃないか」
「そんなに死にたいなら二人っきりになったときにでも解放してやったらどうだ」
 鬼気迫る雰囲気に呑まれ、三人は口をつぐんだ。
 私はそんな事しないのに。
 アールは呻いて涙を呑んだ。
 それが兵士を刺激してしまったのか、頭を小突かれた。
「化け物が」
 私はアール。
 アールは心の中で強く反論した。
 運転を担当するシラー軍曹も背中にアールの存在を意識しており、車内の関心は全てアールに向けられていた。
 このとき後ろを走るアレックス達も不平から協力心が薄れ、不審車の接近の警戒を怠っており、反応が遅れた。
「あいつはなんだ」
 アレックスは窓を下げて身を乗り出してトラックに並行するオートバイを観察し、その手に隠された特殊棍棒の存在を認めた。ライザがアレックスの指示を受けてクラクションを鳴らした。
「後ろからも来ているぞ」
 明らかにトラックを狙う黒いバンが後ろを走っている。
「ありゃ共和党派保養足しの色だな」
 ユージーンが解説したが、アレックスとライザにとっては不要な解説だった。
 クラクションが再び鳴らされるとトラックはスピードを上げたが、バイクもスピードを上げてその前に躍り出た。
 軍曹もはっきりと危険を認識した。
「共和党だ! 警戒を!」
 車内に緊張が走り、アールも理由の分からない緊張に胃を縮み上がらせた。
 バイカーの持つ鉄パイプが一振りされると改造された長銃が姿を現したが、軍曹には見えていなかった。
「ばかやろうが! 揺らすなよ!」
「難しい注文ね!」
 アレックスは銃を構えてバイクのタイヤを狙い、その発砲と同時にアスファルトの上に火花が散り、バイクがトラックから遠ざかった。
 バイカーが振り返って手を振ると、後方を走るバンからアレックスと同じようにして住を手にしたスーツ姿の男が姿を現した。
「酒なんぞ飲まなきゃよかったぜ」
 車が大きく揺れてジョンが悲鳴を上げる中、ユージーンがライザから銃を受け取ってアレックスの反対側から体を乗り出した。それにあわせてゾナも身を乗り出し、アレックスに前方に集中するように指示し苦手な拳銃を構えた。
「二対一ならば引き下がるだろう」
 ゾナの読みもむなしく、黒いバンも同様に両窓から男が銃を構えて姿を現した。
「安全運転でお願いするよ!」
 ジョンの願いもまたかなわず、車は右へ左へと大きく揺れ、ゴムがアスファルトを擦る音が辺りに響いた。
 数発の銃弾が飛び交いアスファルトを削った。双方に損傷は無い。
「悪い夢だ。これは悪い夢だ」
 ジョンは確認を取るように呟き続けた。
 車が大きく蛇行する事で双方共に損傷を負う事は無く、アレックスが威嚇し続ける事によってバイクがトラックに近付く事もなかった。しかし対向車線におよそこの状況にかかわりをもたない第三者の長距離運送用のトラックが現れると、ライザが道を明けるためにハンドルを切り、その隙を突いて後輪が狙撃された。
「やられたわ!」
 車は自由を失って道路を外れて牧草地に飛び出し、いくつかの石段を超えて青く小さな実のなるリンゴの木に衝突した。
「アールは!?」
 ジョンは何もかもがひっくり返った車内でゾナの足元から顔を出した。
「分からない!」
 遠ざかり行くトラックは突然右手に大きくそれて道路をはずれ、人工林の中に消えていった。それはライザたちと同じようにタイヤを狙撃された事を示唆していた。
「なんて警備の甘さだ」
 そのような批判を受けている事など知らず、軍曹はエアバックに埋もれたまま唸った。
「くそ、共和党め……」
 トラックはすぐ二重を手にした男達に包囲され、コンテナが開けられると同時にその中に催涙弾が投げ込まれた。
 兵士達にはガスマスクが会ったがアールにはそれがなく、アールは噎せ返る涙と咳に窒息の恐怖を感じた。
「パンドラを死守しろ!」
 白い煙の中で銃撃戦が始まった。最初からアールを恐れていた男は人間の銃弾を浴びて絶命し、アールの足元に倒れこんだ。
 銃弾が交わされて三分ほどすると最後の一人が倒れ、人工林に静けさが戻った。
 共和党の兵士達はコンテナに侵入し、倒れた兵士の死亡を確認するとアールの髪をつかんで頭を持ち上げた。
「これがパンドラか?」
「回収するぞ」
 アールは持ち上げられて新鮮な空気の元に出されて猿轡を外されると、彼らが敵であるか見方であるかはどうでもよくなり、ひたすら感謝しながら咳き込んだ。
「どう見てもただの女じゃないか」
「パンドラとはそう言う外見をしているんだ。引き上げるぞ」
 五分の後にアレックス達が到着したときには、既に生存者の姿はなかった。


   一二 フランクリン博士
「だから僕は嫌だったんだ! ここでアールとはなれる事にあなるなんて!」
 ジョンは林の縁、惨劇の跡が見えないところに立ってヒステリックに喚いた。
「ユージーン、誰の指示か分かるか」
 ユージーンは少し間を空けて頷いた。
「誰なんだい、こんな命令を出したのは! 軍人って言うのはやっぱりろくなものじゃない!」
「博士、落ち着いて。冷静さを欠いては次の行動に移れない」
 ゾナにたしなめられ、ジョンは荒い呼吸を落ち着けようと真っ青な空を仰いだ。
「残念だがよ、博士。これはろくでもない軍人の命令じゃねえ。フランクリン博士。あんたの同業者だ」
 ジョンは水を浴びせられたように表情を一変させた。
 その名前は幾度となく耳にした事があった。人魚研究の権威。サイバーストーン社の最大唯一のライバルにして、共和党を支持する最大の基盤、ケミカルサイエンス社、通称CSCの重役。ジョンが奇しくもその能力を認める偉大な科学者だった。

 アールが運ばれるそこは首都に座する高層ビルで、共和党を支持する各種企業がオフィスを構えており、高層階は全てケミカルサイエンス社のオフィスや研究所で占められていた。屋上からは都心を一望でき、特に国防総省ビルは監視出来るような位置関係にあった。
 その情報はすぐにアレックスに伝えられ、アレックスとユージーンがアールの救出に乗り出していた。
「そうか、パンドラを捕獲したか! でかしたぞ!」
 今年初孫が生まれたばかりのフランクリン博士は、専用の研究室の電話で一報を聞くと、陸に上がった深海魚とも評される両眼をより一層大きく輝かせて手を叩いた。
「で、いつ届く? 明日か? あさってか?」
「今夜には到着するものと思われます」
 パンドラが世に送り出されてから、いくつ物ものパンドラを入手しては解剖してその正体を突き止めようと試みていた。その特異な遺伝子と肉体の組成は既に明らかで、望まれるのは王国で発生したという野生のパンドラだった。
 野生のパンドラが誕生した事は衝撃だった。フランクリン自身の解剖によっても、パンドラの生殖能力は否定されていたのだ。
「待ちきれんな」
 フランクリンは先ごろ解剖して作ったモルモットのから揚げをつまむと、熱っぽい息を吐き出しながら革張りの椅子に腰を下ろした。
 机の上に並ぶホルマリン漬けにされた臓器の数々は人間のもののようで、ラベルにパンドラを示す記号が刻まれていなければ識別は困難だった。どれも教科書に載せられるような、形が整っていて余計な脂肪や染みのついていない美しく健康なものだ。
 それはフランクリンが想像する限り、追求して得られた美しさと言えた。サイバーストーン社は必要に迫られて内臓の健康を確保する必要があったのだ。その目的が人体への移植、再生医療への足がかりにあったからだろう。早ければ世界博覧会に合わせてこの新事業を発表するに違いない。
「ならば今この時にパンドラの本性を暴いて連中を抹殺せねばならんじゃろうて」
 熱っぽい言葉がこぼれる。
 しかしから揚げがなくなるとフランクリンは勢いも失った。
 サイバーストーン社もドーソン教授も最大にして唯一のライバルであり、負かしたい存在であった。しかし実際にパンドラを解剖して思う事は、科学者としての純粋な好奇心、未知の生物を自ら解き明かしたいと言う欲求だった。
「まったくドーソンのジジイめ、隠し事ばかりうまくて困る」
 待つこと半日。アールがパンドラ調査用に設けられた研究室に到着した。

 アールはパンドラを観察するために作られた、強化ガラスで作られたカプセル型の空間に収められていた。一糸まとわぬ姿であったが、本人はそれを気にするそぶりを見せず、無防備なまま自分を覗く白衣の人間達を眺め返した。
 三重の仕切りを間に挟んで様々な計器のうごめく研究室でアールを目の当たりにしたフランクリンは、医師から気をつけるように言われていた血圧を跳ね上がらせてファイルを床に叩きつけた。
「何だあれは!」
「パンドラです」
 アールを輸送してきた兵士は他に答えようがないといったそぶりで答えた。
「見れば分かる! 見ればな! あのマークがお前達には見えんのか!」
 カメラがアールの胸部を捕らえ、Rの文字をモニターに映し出した。誰かがその記号を読み上げると、フランクリンはガラスを震わせるような声を張り上げた。
「そう! そのとおりだ! 誰だって読める、あれはR型だ! つまりどういうことか分かるか!? あれは工場から出荷されたただのパンドラだ! わしが捕まえて来いといったのは王国にいる野生種のパンドラだ!」
 研究室にいる男性職員七名、女性職員二名、兵士四名がフランクリンの声に顔をしかめた。
「しかしジョン博士が重要視していたと傍受していますが……」
「ジョン! あの若造が! あいつはエニグマの研究者だ! パンドラの研究にはふさわしくないと判断されて追い出された人間だ! あいつに何が分かる!」
 フランクリンは荒いため息をつくと、一人で観察室に通じるドアをくぐり、ガラス一枚を隔ててアールと対峙した。
「博士、危険です」
「危険なものか。工場出荷のありふれたパンドラなど、外洋の人魚ほども危険ではないわ」
 その巨大な目に全身を晒すことに嫌悪感を抱いたアールはとっさに体を隠そうと手を動かした。
「視神経のサンプルだけ残しておこう。解剖の準備をしろ」
 フランクリンはすぐに背を向けたため、アールが口を動かして言葉を伝えようとする様子を見る事が出来なかった。その事に気がついた助手が説明をしても、信じようとはしなかった。
「パンドラにそんな能力はない。気のせいじゃ」
 全くどうして出来の悪い助手が集まるのか。
 フランクリンの苛立ちはいや増すばかりで、それを沈める手立てを求めて助手達は顔を見せ合っては頭を振った。
 助け舟を出すように、研究室の重い扉が開かれて兵士が現れた。
「ユージーン隊の後発部隊が王国領内から五体のパンドラを捕獲してきました。通信機が故障したために報告が遅れたそうです」
 フランクリンが子供のように笑みで顔を崩した。
「でかした! そこのパンドラは適当な部屋に隔離しておけ! 解剖は後回しじゃ! さあ、早く野生種のパンドラを!」
 アールはガスで眠らされ、被検動物用の檻に移して他の部屋に移された。
 入れ替わりに研究室に運ばれてきたパンドラは犬と人のどちらともつかない生き物で、高い叫び声を上げながら暴れ、研究所に入れられる事にも抵抗した。兵士達はYの字型の棒と厚手の肩まで覆う手袋でパンドラを押さえつけ、観察室の中に押し入れようと格闘した。
「すばらしい、なんと言う力強さだ! 工場出荷のパンドラなど比較にならんぞ!」
 フランクリンは恐怖を忘れてしまったかのように興奮し、不安に体を小さくする研究員達との温度差を明らかにした。
「危険ではありませんか、博士」
 扉の向こうにはこれが四体居る。
 心中穏やかで居られるものは一人としていなかった。
「ええい、何をしている! 早くせんか!」
 フランクリンが急かすもパンドラは言う事を聞かず、陸に上げられた鮫もかくやといった体で体格に自身のある兵士達を振り回している。その最中、パンドラが身をかがめた拍子に一人が姿勢を崩し、押し倒され首元に噛み付かれた。
 同僚が救出すべく銃を構えたが、フランクリンの一喝で銃の使用が禁止された。
「ばか者! 貴重なサンプルに傷をつける気か!」
 それならばと三人がかりで引き剥がそうとするものの、それは一度獲物に食いついたワニの口を開こうとするような作業で、パンドラは頭を振り回してアラミド繊維を噛み千切り、そのまま露出した首筋に齧りついた。
 甲高い悲鳴が発砲の申請をかき消した。
「スタンガンだ、スタンガンを使うぞ!」
 研究助手が機転を利かせてサルが暴れたときに使う棒状のスタンガンをパンドラに押し当てると、パンドラは悲鳴を上げて兵士から離れたが、兵士は既に助からない状態にあった。
 次に狙われたのはスタンガンを持つ研究助手で、自分が襲われるとは思っていなかった若者は、兵士がそうされたときよりも簡単に押し倒された。
「すばらしい判断力じゃ。これは人魚を超えるかも知れんぞ」
 フランクリンはテレビで映画でも眺めているかのようにただ見守るばかりだった。
「発砲の許可を!」
「いかん。サンプルを傷つけることはわしが許さん」
 研究助手が首筋を噛まれて悲鳴を上げた。
「これ以上の犠牲は無意味です、お許しください!」
「何をする、やめろ!」
 フランクリンの制止も意味なく、火薬がはじける音共にパンドラのこめかみに穴が開いて血が噴出した。パンドラはそのまま動かなくなり、致命傷には至っていない研究助手は応急手当を受けるべく部屋の隅に移動された。
「貴様らは! これがどれだけ機長なのか分かっているのか! 貴様らの命など! ありふれた命などより! ずっと貴重なんじゃぞ!」
 フランクリンは瀕死の我が子に駆け寄る父親のように飛び出したが、兵士達に止められた。
「まだ危険です!」
「邪魔をするな!」
 パンドラは自分から注意がそれるのを待っていたのか、地を吹きながらフランクリンに飛び掛ろうとして銃弾を浴びた。
「ひ、ひええええ!」
 年のせいか少し遅れて恐怖が表れた。
「救護班を呼べ、負傷者がいる!」
 既にフランクリンに指揮権はないものとして扱われ、最も階級の高い兵士が指揮を取り、その旨を伝えるべく扉が開け放たれた。
 扉の外にいた四対のパンドラはそのときを待っていたかのようになだれ込み、手近な職員に次々と噛み付いていった。
 扉の外で待つ部隊は既に全滅していたのだ。
「こいつら……警戒警報を!」
 扉を開けていた兵士は銃を乱射しながら叫び、パンドラに脚に噛み付かれた。彼の口から発せられる明確な言葉はそれが最後で、後は悲鳴と単語の出来損ないばかりだった。しかし最期の言葉は確かに伝わり、コンピューターの前に座る女性職員が迅速に行動した。
「警戒警報を発動します! この区画は封鎖されます!」
 飾り気のない細い指がキーボードの隅にある薄いプラスチックで守られた赤いボタンを押すと、同じ階のあちこちで赤いランプが点滅し、女性職員の言葉を抑揚のない合成音声が繰り返した。
「誰がそんな指示を出した!」
 フランクリンの言葉は空回りした。
 そうしている間にも階段やエレベーターの前にシャッターが下ろされ、三三階は外界と隔離された。
「博士達は下がってください!」
 二人の兵士が放射状に自動小銃の火花を散らし、パンドラを牽制する。パンドラの群れは銃撃を受けて後退したが、小柄な一匹が大きく飛び上がって天井の僅かな凹凸につかまってぶら下がった。
「高い!」
 二人の意識は小柄なパンドラに向けられたため、弧を描いて接近を試みるパンドラに気がつくのに遅れが出た。
「すばらしい……一匹が囮になって注意をひきつけておる!」
 感心したことを咎められるようにフランクリンは突き飛ばされた。それはフランクリンを咎めるものではなく、犠牲となった兵士の小銃を手にした研究助手がパンドラを狙うためだったが、フランクリンに知る由はなかった。
「危ないですよ!」
 天井にぶら下がるパンドラと弧を描くパンドラが同時に攻撃を受け、憎憎しげな声を上げて部屋から飛び出すと、群れは統制を失って左右散り散りに逃げ出した。
「ドアを閉めろ。念のために、駆除が完了するまでドアを開けないようにアナウンスをしてください」
「協力、感謝します」
 兵士と研究員は互いに労をねぎらいあい、重い扉を閉めて警告のアナウンスを放送した。マニュアルに従えば、階下の特殊部隊が生物災害を駆除すべく非常階段から三三階に進入してくるはずだった。
「あれは貴重なサンプルじゃぞ……何も分かっておらん愚図どもが……」
 フランクリンは腰痛に苦しむ振りををして部屋の隅に縮こまると、ポケットから無線を取り出し、自分の手で自由に動かせる部隊に直接パンドラの再捕獲を命令した。
「博士、応急手当をします。腰は大丈夫ですか?」
 兵士達はフランクリンの無線に気付いていないそうだった。
 重傷を負った研究員と兵士の呻き声が研究室に響き、空調とコンピューターの規則的な振動音が重い彩を加えた。
 フランクリンは無事を誇示するように立ち上がった。
「わしは大丈夫じゃ。まったく貴様らときたら大げさに騒ぎたておって。あれはただのパンドラではない、野生種なのだぞ。貴重性を理解しようと言う気はないのか。もう防御シャッターは下りた。何を慌てる必要がある」
「分かっていないのは博士ですよ。あれは確かにただのパンドラじゃない。化け物です。このビルの防壁は一般の生物災害を想定して設けられているのであって、化け物を想定したわけではありません」
「そうやって何事も大げさに表現したいなら、テレビ局にでも勤めたらどうだ」
 二人は決別し、言葉を交わす事はなくなった。

「わしは自分の研究室に戻る。護衛など要らん。すぐ隣じゃからな。いい事を教えてやろう。ああ言う群れで狩をする動物は警戒心が強いからな、一度危険を味わった場所には、滅多な事では近付かんのじゃ」
 フランクリンを止めようとする者はなく、フランクリンは扉の開閉だけ助手に助けてもらい研究室を後にした。
 人気のなくなった通路は非現実的で、蛍光灯に照らされる緑色の床に広がったパンドラの血痕と弾痕が先ごろの戦いを思い出させるのも、テレビ越しにフィクションを見ているような気にさせた。壁に寄りかかるようにして息を失っている兵士や、無造作に倒れて崩れた簡素なコンテナが見る者を現実に引き戻した。
 フランクリンの研究室には鍵がかけられていなかった。フランクリンは一瞬ひやりとしたが、パンドラにドアノブを回してドアを開けるような知恵はないと考え直し、寒気を振り払った。
「若い奴は何でも大げさに考えていかんのだ」
 鼻で笑い飛ばしてドアを開き、また考えた。本当に自分はドアを閉めて出ただろうか?
 フランクリンの悲鳴が通路に響いたが、それに応じて救出に駆けつける者の姿はなかった。


   一三 ドーソン教授
 アールが連れ去られて間もなくの事だった。
「アールを助けないわけにはいかんな。それは決まりだ。博士、ドーソン教授との面会はどうするんだ?」
 アレックスが尋ねるとジョンは体を二つに分けれたらと言わんばかりに一同と動かなくなったトラックを交互に見やった。
「アールが居るから認められた面会だし、会わないわけにはいかないし……早くアールを助けよう」
「テレビドラマじゃねえんだ。シーンが切り替わってハイ着きました、それ助けました、どれ教授にも会いましたなんてわけにはいかねえよ」
「しかしどれも疎かに出来る事ではない」
 ゾナの発言はライザの支持を得た。
「そうね。私達が二手に分かれて行動するのが得策かもしれないわ」
 そしてライザの発言はアレックスの支持を得た。
「俺とユージーンで救出に向かおう。ユージーンならどこに連れて行かれたか目星がつくだろうしな。ライザは二人を連れて本部に戻れ」
 反対案は提案されず、アレックスとユージーンはバンパーの潰れたバンでアールの跡を追った。
「大丈夫よ。アレックスはやれない事まで口にして面倒を背負い込む人間じゃないわ」
 ライザはジョンの不安を和らげると、衛生電話を組み立ててミスターキューブに状況を報告し、迎えの車を用意させた。
 車が到着すると三人は黙って乗り込み、思い思いに流れる景色を目で追った。
「あの男、ユージーンを信用していいのか」
 ゾナは単調な景色に飽きたように言葉を発したが、その視線は車外に向けられたままだった。
「するしかない状況だわ」
「僕は嫌だな、何となく。ああ言う人には慣れてないから」
 運転手は黙って三人の好きにさせた。
 車はまっすぐに国防総省を目指し、途中ビル群の間に見えた一際高い商社ビルに共和党派の企業が集まっているとライザから案内があり、国防総省に着くとそれぞれの身分を確認された。
「ライザ中佐、この男は?」
 車を取り囲む兵士達は得にジョンを警戒していると言う様子もなくマニュアル的に尋ねたが、ジョンは過敏に反応して両手を上げたまま硬直した。
「ジョン博士よ。こちらはゾナ上宮大将。二人とも連絡がいってると思うけど、違ったかしら?」
「いえ、そのとおりです。お手数をおかけしました」
 いっせいに敬礼を受けるとジョンも反射的に敬礼の真似事をした。
「ミスターキューブ、いえ、ベーカー元帥はドーソン教授の所にいらっしゃいます。その……パンドラを奪取された事を酷く残念がられていました」
「どちらが?」
「お二人ともです」
 車は静かに地下の駐車場に潜り込んでいった。車から降りると運転手はその場に残り、新たに三人を先導する案内人が就いた。
 施設の中は軍隊を思わせない整然とした清潔さに満たされており、ジョンは面会のために特別に先進的な企業のビルを貸しきったのではないかと想像した。しかし角という角には銃を肩にかけた軍人が姿を誇示しており、紛れもなくここが合衆国の国防の中枢である事を示していた。
 正面の入り口から少し入るところまで一般にも開放されており、施設内の飲食店などのサービスも大半は民間企業が委託されている事をライザから案内されると、ゾナは信じられないと頭を振った。
「これが民主主義なのよ。国防を明らかにしろってうるさいマスコミと、手の内を見せたくない私達。二人の折り合いがついた結果が、一般への一部開放と民間への委託だったの」
「国家はもっと威厳を以ってしかるべきだと思うがな」
「国民性の違いね」
 ゾナはライザの苦笑から軍部の苦悩を見て取り、それ以上の言及を止めた。
「アールに見せたい場所じゃないね」
 ジョンの呟きはゾナの賛同を得た。
 二つのセキュリティを潜り、二度の身体検査を受けてエレベーターで地上二階に上がると、張り詰めた空気が三人を出迎えた。そこは国防の最高機密を司る空間であり、常に緊張感に満たされていた。更に別のエレベーターで四階に昇ると病院めいた空気が三人を包んだ。
「傷痍軍人用の病院を兼ねてるのよ」
 ドーソン教授はその区画の一番奥に居た。
「入りたまえ」
 角ばった声の後に静粛を求める張り紙の張られたドアが開かれると、某かの機械が規則的に奏でるモーターや針が動く音が耳に届いた。
 ミスターキューブはベッドの脇にある丸椅子の上に腰を下ろしていたが、ミスターキューブの体が大きかったために丸椅子が見えず中腰のように見えた。
「パンドラは共和党に取られてしまったらしいな。実に残念だよ、ジョン。しかしお前が無事だったならばそれだけで良しとしなくてはいけないな」
 ドーソン教授の体はベッドの上に固定されているように見えた。それは彼の細く皺の寄った体に無数に繋がるチューブがベッドの上を這っているせいであるように思われた。彼の顔が深い皺で覆われているように、その声もしわがれていて聞き取りにくかった。
 ベッドを囲むようにして七人の白衣の学者が立っていた。みなジョンの同僚で、ジョンにはよく見知った顔だった。特に入り口の近くに立っているヤギはジョンがパンドラの研究から外された後もジョンにパンドラの研究状況を事細かに伝えた友人で、ジョンと目が合うと互いに微笑み合った。
「入りたまえ、中佐。彼らはパンドラ対策本部のブレイン達だ」
 ミスターキューブの指示を受けて三人が入室すると、ドアは静かにひとりでに閉じられた。
 同じ空間に立ち、ジョンはやっと師を直視出来たような気がした。
 老教授自体に変わりはないのだ。彼の内臓の機能を外部に接続された機械が代行するだけで、その鈍く光りながら万物を探る瞳は健在で、白い髪がゆるいウェーブを見せている頭には七〇年の歳月が積み重ねた知識と歴史が飽和する事無く湛えられている。
「教授、お久しぶりです」
 ジョンが遺伝子工学に秀でた国立大学に入学したのは一三のときで、稀代の天才だと囃されると同時に煙たがれた。年齢と感性の違いから周囲になじむことが出来ず、留学生がそうであったように孤独に苛まれていた。必然的にいつでも合同研究室が居場所となり、そこに求められる技術と知識を一人で磨く事になった。
 ある日遺伝子操作に関する仮説をまとめたノートを取りに講堂に戻ると、ドーソン教授が一人でそれを読み耽っていた。
「これは君が書いたのか」
「はい」
「今日から私の研究室に来なさい。それにしても若く見えるな。まだ子供のようだ。最近の学生は子供っぽくていかん」
 短い会話だったが、ジョンはそれで十分にドーソンに好感を抱いた。
 研究室では最先端の技術を学ぶというよりもそれを用いた実験開発を手伝わされた。その事は有難かったし、同じ志を持つ仲間と語り合う事も出来た。
 やがて飛び級を重ねて大学院に進み、卒業が決まると、教授は当たり前のようにサイバーストーン社の機密書類をジョンに見せた。
「これは人造生物、パンドラという。これを作るのにお前の力が必要だ。ジョン、私の下で働きたまえ」
「もしも僕が断ったらどうするんですか」
「研究が十年遅れる事になる」
 ジョンは卒業と同時にサイバーストーン社に就職した。就職後も教授はジョンの上司であると共によき師であり、ジョンがパンドラの危険性を主張するようになってからはジョンの説を否定しつつもジョンの職場での立場だけは保護し続け、エニグマと言う二番目に重要視される研究のポストを与えさせた。
 数秒の間に過去を振り返ったジョンは、過去を振り払うかのように息を吐いた。
「アール……パンドラはここには居ませんが、データは全て持ってきています。僕が正しかった事を証明しましょう」
 ジョンには老教授がにやりと笑ったように見えた。

 ベッドの前にスクリーンが吊るされ、天井のプロジェクターから病室に備え付けのノートパソコンの画像が投影された。薄暗くなった病室の中、スクリーンの横に立つジョンの頬が青い光に照らされる。
 ジョンがキーボードを叩くとスクリーンに二つのカルテが表示された。一方にはアールの顔写真があり、もう一方には画像なしの文字が踊っている。それぞれのカルテはQ型とアールの遺伝情報を記したもので、専門的な用語と数式が並び、馴染みのないゾナやアレックス達にはアールの身長や体重以外に何の情報も読み取る事が出来なかった。
 カルテの片隅で数本の棒グラフが赤い色の明度を増減させながら上下する。両者のグラフは全く異なった動きを見せている。
「こっちがアール、R型のカルテで、こっちがQ型のカルテです。R型のデータは最新のものになりますが、Q型のデータは最初期のものです。遺伝子的に似通った二人ですが、この段階では二人共に生殖能力が認められません。しかしQ型がアール型と同じように成長したと仮定すると……」
 Q型のグラフが大きく伸び、アールのグラフと似た動きを見せた。同時にカルテの内容も変更されていく。
「Q型は生殖能力を獲得しています。そしてもう一つ、Q型もR型と同じく自我を持って、それも高度な自己形成を完成させています」
「つまりQ型の行動は本能的なものではなく、何らかの目的を持った意識的な行動だと考えるのかね?」
 同僚の質問にジョンは頭を振った。
「恐らく彼女は極めて本能的に行動しているでしょう。食べて、生んで、増やす。生命の根本的な活動を本能的に実行しているだけです。しかし厄介なのは、本能に従うために理性を働かせている事です。多分僕達が思いもかけない理知的な作戦に打って出る可能性が高いでしょう。既に最初の段階から、彼女は犬とセックスして精子を手に入れたんですから」
 ゾナの表情がゆがんだ。
「R型には生殖能力が認められないが、これについてはどう思われる?」
「見てのとおりでしょう。幸か不幸か、あなた方が主張したようにパンドラが生殖能力を獲得する可能性は万に一つあるかないかだったんですよ」
 質問した学者はかつて自分がジョンニはなった言葉を思い出して唸った。
「僕が一番注目したいのは、Q型がシェーカー耐性種である確率です。R型を参考にシミュレートしてみた結果」
「R型にシェーカーを散布したのかね」
「まさか。僕がアールにそんな事をするわけがない。遺伝子上のシミュレートです。とにかくその結果、九割方Q型は耐性を持っていないと見る事が出来ます」
「だが九割では十分ではない。そう言いたいんだろう、ジョン博士」
 奥に座る学者はひげをいじりながら皮肉めかせて言った。
「僕はこのデータをここに置いていく。だからここのスーパーコンピューターでより細かいシミュレートを重ねてほしいんだ」
「お安い御用だ、ジョン」
 ヤギは胸を軽く叩いて見せ、ジョンを微笑ませた。
 深く息を吸い込む音の後で、ドーソンが口を開いた。
「ジョン。君の仮説は尤もだ。しかし忘れてはいけない。パンドラは人造生物だ。そのDNAは全て我々が作った。君もだ。タングステン合金で作った電極でアミノ酸を一つずつ固定していった作業を忘れたわけではあるまい。およそあらゆる動物園から動物が脱走するのは、人間に自然と言う複雑系を管理する能力がないからだ。しかしパンドラは違う。パンドラは線形だ。我々が作った。今は野放図に見えるだろうが、必ず管理出来るようになる。現にQ型を覗く全てのパンドラは安全だ」
「アール、R型もイレギュラーです、先生」
「そこだよ、ジョン。君はR型に入れ込んでいるようだ。その余り冷静さを失っている。自分の仮説が証明されたのだと興奮し、長期的な視野を失っている。若い頃はよくある事だ。考えて見なかったかね? Q型を再教育すれば、第二世代パンドラをまとめて安全に掌握出来るのだ」
 老教授の声は淡々としていて、それでいて聞き取りにくく、息を殺して耳を澄まさなくてはいけなかった。しかし他を圧倒する凄みがあった。瞳はジョンを射るようで、自分の考えを一歩も譲らなかった。
「無論、Q型を捕獲できなかった場合の事は考えている。駆除だ」
 ジョンは恩師が最後の理性を失ってはいないと安心した。
「僕達が気をつけなければいけないのは、パンドラが進化しているという事です。この言い方は適切ではありませんが、彼女達は人造生物から本物の生物へ進化しようとしています。早急な処分が必要だと思っています」
 何人かが小声で反対を示した。
 会議はドーソンの体調を気遣い小休止をはさみながら続けられた。
「Q型が一日に五回産卵するとしよう。その消耗は相当なものだ。ほうっておけば、栄養失調で自然に全滅するんじゃないか?」
「その時間はどこから持ってくる。既にパンドラは国境に近付いているし、いつ泳げるようになって湖を越えてきてもおかしくない」
「一日も早くQ型を捕獲するべきだと思うがね」
 捕獲するべきだとする主張が力を持っている事にライザは心中穏やかではいられなかった。捕獲するには誰かが突入しなければならず、その誰かに自分が選任される可能性は極めて高いのだ。そして不安は的中した。
 会議が落ち着いて三人だけが別室に移動させられると、ミスターキューブはもったいぶって命令を下した。
「アレックス大佐とユージーン大佐からの連絡が途絶えた。R型の救出に失敗した可能性が高い。我々は直ちにQ型を捕獲しなくてはいけない。ライザ中佐、パンドラ捕獲作戦の指揮を命じる」
 ライザは気を失わないようにするだけで精一杯だった。


   一四 救出
 アレックスとユージーンはフランクリンの招集したパンドラ捕獲部隊に身を潜めていた。
 これはフランクリン私設の警備隊で、軍部からも黙認される脱法軍隊でもあった。主な任務は研究所の警備と生物災害への対応となっているが、後者については研究所事態に対策本部が設けられているので、専らフランクリンの独断で生物災害を秘密裏に処理するときに召集された。彼らは互いの所属も知らないいわゆるならず者であったが、その腕はフランクリンが保障している。
「この期に及んでまだ捕まえようとはなぁ。さすがの俺もあきれるぜ」
「ジョンみたいに常識のある学者はそうそう居ないって事だな」
 二人の会話も十数名の雑多な私設部隊のざわめきに飲み込まれた。
 非常階段を上って三三階に入る非常扉の手前で、隊長と思しき大男が任務の内容を説明している。パンドラの無傷での捕獲との命令だったが、真剣に耳を傾ける者の姿はなく、重火器を鳴らす者の姿もあった。別の非常口から正規の生物災害対策班が突入するので遭遇しても武力衝突は避けるようにとの指示が出されたが、多くの者は過去の経験から銃をちらつかせれば相手が譲歩する事を知っていた。
「アールの居場所に心当たりはあるか」
「ないな。迷路みたいになってるから迷わないようにてめぇの心配でもしたほうがいいと思うぜ」
「俺としては禁煙の方が重大な問題だよ」
 二人は笑って三三階になだれ込む部隊に続いた。

 アールは突然の悲鳴に目を覚まし、部屋の薄暗さからサーカスを思い出した。薄暗い部屋が物置である事をアールは知らず、ただ黙って檻の中からダンボールの箱や布のかけられた機材を見上げた。冷気を感じて裸である事に気がつくと、おぼろげながら記憶が繋がった。
 誰か居ないかと呼びかけようとして、自分に好意的な人間が居なかった事が思い出されてやめた。
 檻に鍵はかけられておらず、手を出して外側から鉄製のかんぬきを外すと抵抗を受けずに脱出する事が出来た。
 服もあった。それは職員に配られる白衣で、アールにとってはジョンが着ていた服と言う程度の知識しかなかったが、ジョンが着ていたと言うだけで着用するには十分だった。羽織ってボタンをすると冷気が和らいだ。
 ドアを開ける事は危険かもしれなかったが、待っていれば事態が解決するとも思えず、思い切って開ける事にした。
 通路は驚くほど静かだった。工場に似ていなくもないが、工場よりも幾分か明るく、脇に置かれた観葉植物が人の気配の名残を示している。
「誰か居ませんか」
 不安が湧き上がって耐え切れずに小声で尋ねてみたが、返事はなく、声は冷たい灰色の壁や床に吸われて消えてしまった。
 急に足元が酷く冷たく感じられ、アールは服と靴を探す事を決意して歩き出した。素足が床に張り付いてはがれるぺたりぺたりと言う音はこの場に似つかわしくなかった。
 通路の左右には工場と同じようにドアがあり、アールには読めない文字の書かれたプレートが掲げられていた。工場との最大の相違点は前後に十字路が見え、この空間が入り組んでいる事が想像出来る点にあった。
 アールは十字路に到達する前に、半開きにされたドアから呻き声を聞いて立ち止まった。興味を引かれてドアノブを押してみるとドアが開き、アール以上にその場に倒れるフランクリンが驚いた。
 フランクリンはパンドラに右腕を噛み千切られたが、太い血管は避けられていたためにまだ生きていた。
 机と本棚の間に身を潜めてフランクリンが動いて逃げ出さないのを監視するその目は、フランクリンもよく知る肉食性の人魚のそれとよく似ていた。
 他に食べるものがあるために襲い掛からないだけで、生きている事が分かればすぐに襲ってくるだろうその姿勢から、フランクリンは助けを呼ぼうにも動けずに居た。どうやらパンドラが食べているのは兵士の肉らしい。
 そんな拍子にドアが開き、女が現れた。何故か裸足だったが白衣をまとっており、職員である事に疑いはない。そもそもフランクリンにはそこまで考える余裕がなかった。
「助けろ……」
 フランクリンが倒れるときに打って痛む胸を堪えてささやくと、アールは一歩下がった。
「パンドラが居る……助けろ……」
 フランクリンの目から見てアールは非情な若者に見えた。アールにしてみればフランクリンは警戒すべき人間であり、出血が見られるが助けるべきか逃げ出すべきか迷うところであった。
「血が出てるわ」
「だから早くしろと言ってるんだ……」
 アールがフランクリンの方をつかんで部屋の外に引きずり出そうとすると、パンドラが食事をやめて二人を凝視した。
「早くしろ」
「早くしてる」
 パンドラは明らかにエサを横取りされて怒っているように見えた。
 フランクリンの白衣の襟がドアの敷居に引っかかり、フランクリンの首が絞まるのも関係なくアールが引っ張ると破け、そのまま引っ張ると次はベルトが引っかかった。
「動かない」
「ベルトだ、ばか者」
 アールはベルトの意味が分からず、単純にフランクリンを引っ張り続けた。
 パンドラが身を乗り出した。
「急げ、急がんか」
 フランクリンは腕が痛むのも構わずに自ら体をひねって自由になると、床を蹴ってアールが引っ張るのを助けた。
「ドアを閉めろ!」
「あなたが邪魔なの!」
 飛び掛るパンドラに二人の悲鳴が交錯した。
 アールはフランクリンを投げ出すように通路の脇に押しやると、ドアを突き飛ばして閉めた。しかし閉まる直前にパンドラの黒い毛に覆われた腕が伸ばされ、挟まって暴れた。
「閉めろ!」
「どうすればいいの!?」
 アールはもたれかかるようにしてドアに背中を押し付け、圧力に負けて浮き上がろうとするドアを押さえ込もうと懸命になった。
「何でもいい、そいつの腕をどかせ! これじゃ、これでつつけ!」
 フランクリンはアールにボールペンを渡すと、自分だけでもその場から離れようと脚を泳がせた。
「ごめんなさい!」
 アールはペンをパンドラの腕に突き刺し、パンドラが短い悲鳴を上げて腕を引っ込めるとすぐに尻を突き出してドアを閉めた。自動で鍵がかかり、パンドラが無意味にドアを叩く音が背中に伝わった。
「でかした。早く安全なところに逃げるぞ」
 若いのに大したものではないか。
 フランクリンはアールの肩を借りて立ち上がった。
「そこで軍人どもがボス猿を気取っておる、そこで治療を受けるぞ」
「私の服を知らないですか?」
「知らんわ」
 フランクリンはアールの体温を感じ、出血が過ぎて自分の体温が低下しているために暖かく感じるのだと思った。
「私の服を取ったのはあなた達なのに、知らないんですか?」
「知らんしらん、錯乱したか。行くぞ」
 二人は互いに不満を覚えながらも息を合わせて軍人達の待つ研究室を目指した。
「ところでお前はどこのチームの人間だ? 礼ではないがな、人手が居るのだ。わしの研究チームに入れてやってもいいぞ」
「何を研究しているの?」
「パンドラじゃ。今の一匹も機長サンプルじゃからな、後で回収させよう。それとは別に解剖予定のパンドラがあってな。そっちを手伝わせてやる」
「私はやらない」
「遠慮するな。若いうちの経験は何よりも有益じゃ」
 血痕の生臭い研究室の前に着くと、アールは怖気づき、フランクリンはポケットまさぐって悪態をついた。
「カードを落とした。お前のカードで開けてくれ」
「カード?」
 アールは首をかしげた。
「IDカードだ。どこにクレジットカードでドアが開く研究所がある」
「持ってない」
 何だこの女は。
 フランクリンは冷静さを取り戻した事もあり、初めてアールに違和感を抱いた。少なくともフランクリンの人生において、裸に直接白衣だけをまとっている研究員は見た事がない。ネームプレートを確認しようとしてもネームプレートはなく、しかしその顔はどこかで見覚えがあった。
「お前は何者だ?」
 聞かれると、アールは答えた。
「私はアール」
「どこのチームに――」
 フランクリンが次の質問を口にする前に、怒号と何かが燃える音が響き、十字路に火事が作り出すような大きく濃い人影が躍った。
「処理班か!」
 フランクリンは怒りをあらわにしてアールを押しのけて抗議に向かおうとしたが、十字路を曲がってやってくるパンドラの姿を認めて勢いを失って腰を抜かした。
「く、来るなああああ!」
 パンドラにはフランクリンの制止など関係のないもので、炎から逃げ獲物に食いつくために両腕と両足を使って走り続ける。
「止まって!」
 アールが一歩進み出て右手を突き出して言うと、パンドラはそう仕組まれた人形のように、飛び掛らんとする姿勢のまま固まった。
「だめ」
 アールとパンドラの視線が交わった。アールはパンドラの黄色くにごった瞳を捕らえ、パンドラはアールの深い青い瞳をの覗き返す。
 パンドラは攻撃の姿勢を解き、アールの臭いを嗅いだ。
「何をしている」
 常識から離れた行動と結果に、フランクリンは自分の存在を隠そうとしながらも尋ねずに居られなかった。
「だめ」
 アールが再び強く言うと、パンドラは飼いならされた犬のように数歩下がってうなだれた。
 研究室の扉が開かれたのはほぼ同時だった。
「博士、大丈夫ですか!」
「君も下がって!」
 へしたちはフランクリンを見つけると研究室に引き入れ、アールを下がらせてパンドラに銃撃を浴びせた。
「どうして」
 アールは信じられないものを見るようにその光景を見守った。
 拍手のように絶え間なく鳴り続ける発砲音に、それを視覚化したように舞い散る鮮血。パンドラは両手と両足をばたつかせて不可思議な踊りを舞い、倒れ、二度大きく痙攣して動かなくなった。
「博士の治療を!」
「君も怪我をしてないか、中に入って調べるんだ」
 フランクリンが治療を受け初めて場が落ち着くと、研究室の注意は呆然と立ち尽くすアールにひきつけられた。
 初めに若い研究助手が気付き、すぐに全員がその事実を認識した。
「こいつはパンドラだぞ!」
 アールは銃口を向けられるより素早く兵士を突き飛ばすと、十字路に向けて走り出した。
「ごめんなさい!」
 その言葉が飛び越えるパンドラの死体に向けられたものなのか、突き飛ばした兵士に向けられたものなのか、アール自身にも分からなかった。
「逃がすな!」
 一人が引き金を引いたが、既に弾が底を尽きていた。
「俺がやる!」
 アールに突き飛ばされた兵士は床に伏せたままアールに向けて引き金を引き、アールの太ももに赤い花を散らせた。
 アールは十字路を曲がって来た黄色い宇宙服に身を包んだ処理班に突っ込んで倒れた。
「どうした、パンドラか!」
 処理班はくぐもった声でアールを助け起こした。
「そいつがパンドラだ!」
 兵士の叫び声は処理班の耳にも届き、アールを抱き起こした男は情けない声を上げてアールを放り投げた。
「も、燃やせー!」
 アールは再び倒れた先で目を開け、黒い墨の塊となってうずくまる人型の何かを見た。
 それがパンドラだと分かるのに時間は要さず、自分もこうされようとしているのだと分かると、アールは脚の痛みも忘れて飛び起きた。
「逃げるぞ!」
 処理班は怪我人を抱えていたために反応が遅れ、火炎放射器から線状の炎をアールに向けて放ったが、それは床を黒く焦がすに終わった。
 アールはサーカスから逃げ出したあの日を思い出し、工場でアレックスが撃ったパンドラを思い出し、今さっき銃弾に踊り散ったパンドラを思い出し、全身を恐怖に突き動かされて走った。
「追うな、まだ他にも一匹残っている!」
「いや、二匹だ!」
 処理班の混乱に乗じてアールはいくつかの十字路やT字路をを曲がり、人の声のしなくなったところで壁にもたれて座り込んだ。痛みと疲労から来る荒い吐息が壁に反射して何重にもなって聞こえるような気がした。
 太ももの傷は貫通しておらず、銃弾が中に残っている事はアールにも想像出来た。そうとなると、アールは逡巡し、決意を固めて深呼吸を重ねた。
 左手で傷口を押さえ、右指を傷口の中に差し込む。
「うぐっ」
 声を殺すと汗が全身ににじんだ。
 生温かい傷口を強引に広げ、人差し指で肉を掻き分けて奥に進む。脚の筋肉が小刻みに痙攣しているのがよく分かった。
 アールは涙でにじむ目を閉じ、いっそ自分を殺すつもりで銃弾を掻き出した。
 粘っこい音と共に血にまみれた指が抜けると、銃弾が床に転がり、悲鳴のように血が噴出して止まった。
 アールはぐったりと背もたれ、目を閉じて鼻で深呼吸を繰り返した。天井を仰いでいないと涙がこぼれそうだ。
 どこからか人の声が響くと、休んではいられなくなった。アールは壁に手をついて立ち上がり、足を引きずりながら進んだ。
 まるで自分が口の利けない動物にでもなったかのようだ。助けを求めたいのにその声は通じず、相手の殺意を煽る。理由も説明されずに追われる。とにかく誰かに助けて欲しかった。
 緊張の成果口の中が乾いた。
 ダンボールの積まれた突き当たりに当たった。左手にはドアが見えるが、IDカードがなくては開かないだろう。
「ここに隠れれば……」
 アールは自分の閃きに満足した。きっと誰にも見つからないに違いない。その後の事はまたそのときに考えればいい。
 アールが中身のないダンボールをどかそうとしたとき、ドアが開かれて男が二人アールを見つけ、驚きの声を上げた。
「おい、その脚はどうしたんだ。大丈夫か?」
「職員には避難命令が出ているだろう。ここもロックが利くから、中で衛生班を待つんだ」
 男達はやさしく接し、アールも心を和らげた。しかしその手に自動小銃が握られているのを見ると、アールは顔をこわばらせて一歩また一歩と後退した。
「さあ、中で待ってるんだ。助けを呼んでくる」
「やだ」
 アールの声はアール自身も驚くほど引きつっていた。
「まだパンドラがうろついてる、ここも危険だ」
 手を差し出されると、アールは全身をこわばらせて叫んだ。
「来ないでええ!」
 その声でダンボールの山が崩れたように見えた。
 しかし実際にはダンボールの山の中からパンドラが姿を現し、パンドラは迷う事無くアールに差し伸べられた手に飛びつき、その勢いで男を押し倒した。
「こんなところに隠れてやがったのか!」
 男は押し倒される最中に自動小銃の引き金を引き、爆音を響かせながら天井に穴を穿ち、蛍光灯を割って雪のようなガラスを撒き散らし、通路に闇を落とした。
「ちくしょうバカ力だ!」
 男が指を噛み千切られた痛みで銃を手放すと、銃は円を描きながらアールの足元に転がった。
「そこをどけ、撃つぞ!」
 もう一人が銃を構えてもアールはその場を動かず、パンドラが男の喉下に食いつくのを黙って見守った。野太い悲鳴と血しぶきが散った。
「このやろう!」
 男はもはやアールの事など構わず、同僚を助けるべく引き金を引いた。
「だめ!」
 パンドラが空気を叩き割るような連続的な音に合わせて不気味に踊りだすと、アールは銃を拾い上げ、本能的に男に向けて引き金を引いた。パンドラと同じように男が踊り、そのまま崩れ落ちて銃撃は止んだ。
「だって……私……」
 アールは誰かに咎められた気がして言い訳を探した。
 兵士達の死体もパンドラの死体も血にまみれ、白衣に返り血を浴びたアールだけが薄暗い突き当たりに立ち尽くしている。床には徐々に人間とパンドラの血が混ざり合いながら広がって黒い染みを作っていった。
 アールは耳鳴りに右手で耳を押さえた。空気が重く呼吸がしにくくなって息を荒げた。目が熱くて涙が溢れた。
 足音や人の声が幾重にも反響して聞こえたが、死体から目を離す事が出来ない。
「私……そんなつもりじゃ……」
 涙とは別に視界が歪んで平衡を保たなくなった。
「私は……」
「アール!」
 振り返ると、そこにはアールの見知った姿があった。
「どうした、銃撃か。お前も撃たれたのか?」
「こりゃまたハデにやったな」
 知っているはずの二人だったが、アールには思い出せなかった。
「やだ、来ないで!」
 また敵かもしれない。
 アールは震える銃口をアレックスとユージーンに向けた。
「様子が変だぞ」
 ユージーンはアレックスにささやき、自らも銃を構えた。
「よせ。刺激するな」
 アレックスは銃を下ろし、両手を上げて足を踏み出した。
「どうした、アール。迎えに来たぞ」
「来るなあ!」
 アレックスの足元に火花が散り、アレックスを立ち止まらせた。